過ちの契る向こうに咲く花は
「伊堂寺さんすみません、その、お相手の名前って」
 おそるおそる予想していることを確かめようと口にしたとき、彼のジャケットから着信を知らせるメロディが鳴り響いた。
 なにも設定をいじってなかろうデフォルトのそれは、ふたりの間に微妙な空気を呼ぶ。
「……どうぞ」
 打破したい状況には間違いないが、切羽詰まっているわけではない。伊堂寺さんもそれには素直に応じ、ジャケットから携帯端末を取り出した。

「なんだ、誠一郎」
 電話に出るとともに、ソファから立ち上がる。私から若干離れたものの、気兼ねしなくていい相手なのか、その口調はぶっきらぼうなままで、こちらに聞こえるのも遠慮しないみたいだった。
「どういうことだ」
 窓際に立った伊堂寺さんの声音が曇る。そしてゆっくり私のほうをふり返った。

「お前、野崎すみれじゃないのか」
 ああ、やっぱり――

 多少、怪訝な表情を浮かべた伊堂寺さんは、そのまま電話の相手と話しこみ始めた。さすがに憚られるのかボリュームも自然と小さくなる。
 大体の事情が飲み込めた私は、安堵のため息と共に果てしない疲れを全身に感じていた。

 電話を終えた伊堂寺さんは、いったんそのまま別の部屋へと消えた。キッチンだろうか。
 何かしばらく食器を動かすような音が聞こえるなと思ったら、水を入れたグラスを片手に現れる。
 期待はしていなかったからいい。私の分がないことぐらい。
「どうりで」
 ついでに謝罪も甚だ期待していなかったからいい。
 だけどその「どうりで」はなんだろう。言われずともその続きはわかるけれど、思っていても口にしないものではなかろうか、いい大人ならば。

「すみませんが、私は野崎葵(のざきあおい)です」
 むしろどうして私が謝る。何も悪いことはしていないのに。
 悪いのはろくに名前も確かめず、勝手に勘違いした伊堂寺さんだろう。
「誠一郎に聞いた」
 その誠一郎さんが誰かはわからないけれど、人を巻き込んだというのにその態度はいかがだろうか。
 明らかに、私より機嫌が悪い。

「野崎すみれさんは、営業部ですし私のひとつ先輩です」
「らしいな」
「言っときますが私とは真逆のタイプです」
「そうか」
「なのになんで私なんかと間違えるんですか」

 思わず語尾に力が入った。そのせいか強い瞳に睨まれる。
 でもここで引き下がってもいいことはない。あいにく「間違いは誰にでもありますよ」なんて朗らかに終われる性格はしていないつもりだ。
 たとえ、相手がすごい人でも……明日から会社の席がなかったら困るけれど。
 
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