過ちの契る向こうに咲く花は
 伊堂寺さんが大きなため息をつく。だからつきたいのはこっちだというに。
「鳴海製作所の野崎だとは覚えていた。大体の年頃もあってたし、下の名前が花の名前だったこともうっすら記憶にあった。部署の名簿を見たらそれに間違いはなかったし、そもそもが女性社員がすくない会社だ。似たような名前が複数いるなど想定しとらん」
 挙句、思わず口が開いたままになりそうないいわけが返ってきた。

 大体の年齢があっていた?
 下の名前が花の名だった?
 似たような名前が複数いると想定していなかった?

「伊堂寺さん、あなた相手のこと何も知らずに婚約なんてするんですか」
 本音がするっと口を滑った。
「それが悪いか」
「いや、それが悪いかどうかは私に判断はできませんけれど、それにしたって自分に相応しい人間かそうでないかぐらいわかるでしょう!?」
 さらに本心が流れるように気持ち良く出ていってしまった。

 この人は一体どれだけ関心がなかったのだろう。むしろ女性としたら相当屈辱的じゃないだろうかと思ってきたら、他人事なのに途端はらわたが煮えくりかえってきた。
 なのに伊堂寺さんは、不服そうな表情から一瞬、気が抜けて。
「お前……それ自分で言ってて虚しくないか……」
 まさかの笑い声をもらしていた。

 いや、とんでもなく失礼だと思うのだけれど、その発言も。
 ただ出会ったばかりとはいえ、今までにない表情が出てきたことに驚いて。
 一気に怒りが飛んでいってしまった。

 それどころか油断して、思わず魅入ってしまう。それは笑顔とは言えない、ささやかなものだったけれど。
 伊堂寺さんは確かに頬の筋肉を緩めていたし、あの冷たい瞳がなくなっていた。
 笑い声だって、軽く抑えたようなものだ。
 だけどそれらが、まるで計算された映画のワンシーンにおける俳優のように。色っぽく、そしてどこか儚げに見えたのだから、しかたがない。

 毒気を抜かれるとは、こういうことだろうか。

「ああ、悪い。いや、悪かった、か」
 その表情はすぐに引っ込んでしまったものの、先程までの険しい顔に戻ることはもうなさそうだった。
 声の雰囲気でなんとなくわかる。

「いえ、その、すみません、私も言い過ぎました」
 こうなってはもう強気に文句も言えなくなってしまった。自分がこんなに軽い女だったかと嫌になりそうになるものの、諦めることにする。
 美しさは罪ってのはたぶん当たっている。
 
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