過ちの契る向こうに咲く花は
 しかし全く面識のないひとに名を呼ばれて動揺しないわけがない。
「あの、どちらさまですか」
 男性の後方に若く身体のしっかりしたスーツの二人組が見える。
「ああ、すまない」
 手慣れた仕草で男性は内ポケットから名刺入れを出し、私に一枚差しだしてきた。
 そこに書いてあるのは、私が勤める会社の親会社の名前。肩書、社長。名前、伊堂寺豪。
「ええと……伊堂寺……巽さんの……」
「ああ、父だ」
「おとっ」
 人間、心底驚くと妙な声が出るらしい。

「し、失礼しました。野崎葵です。伊堂寺さ……巽さんにはいつもお世話になっております」
 それでも咄嗟に挨拶できただけ、頑張ったと思う。頭を下げたままの体勢で、どうするべきかと必死に考える。
「あ、あの、巽さんのところにいそうろ……同居させていただいているにも関わらず御挨拶もまだで申し訳なく」
「いやいや、息子の勝手に付き合ってくれてこちらこそ申し訳ない。それより、顔をあげてくれないか」
 声は柔和で怒っている雰囲気は感じとれなかった。でも婚約破棄と勝手な婚約に関して怒られるのではないだろうか、と内心はらはらしつつも顔を上げる。

「ああ、やはり。よく似ているね」

 ところがこちらを見ていた顔は、ちょっと懐かしそうにはにかんで、そんなことばを口にした。
 思わず息を止めてしまう。似ている、それって誰に。

「いきなりすまない。わけもわからないだろう。よかったらお茶でもどうだろうか」
 多少柔らかくとも、やはり親子なのだなと思ってしまった。きっと私の返答は重要ではない。
「母を、知っているんですか」
 それでもなんとか絞り出した声で問うと、彼は眉尻を下げてうなずいた。
「父親のこともだ。だが、少々話は長くなる」
 その瞬間、止めていた息が自分の中で破裂するかと思ってしまった。父親、ということばに最初に反応したのは心臓だった。

「君の同僚には連絡しておこう」
 そう言って伊堂寺さんのお父さんは後方に控えていたひとりになにか言っていた。もうひとりはさりげなく私を観察している。
「知人の店で良いだろうか」
 きっとこれも私の返答は気にしていない。それでもはっきり頷いた。

 なんにも知らない父親のこと。その話がすこしでも聞けるのかもしれない。
 母が話さなかったことに怖さはある。聞かないほうが良いようなことだったらどうしようという不安もある。
 だけど、わからないまま拒否していたら、知る機会すら失うかもしれない。

 歩き出したその背を追う。ふとどうして伊堂寺さんのお父さんが私の親のことを知っているのだろうと疑問が生まれた。息子の婚約者が何者かと調べたのだろうか。
「心配しなくていい。すこし昔話がしたいだけだ」
 私の不安を読みとったのか、前を向いたまま伊堂寺さんのお父さんが言った。
 その声に深呼吸をひとつして、私は着いて行くことをしっかり決心した。
 
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