モン・トレゾール
私が渡した楽譜は閉じたまま。
手を擦り合わせると、白と黒の鍵盤に両手を広げた。
まだ何かを考えているのか、彼女の指はそこに中々おりなかった。
それどころか、思い立ったかのように椅子から立ち上がるとどんどんピアノから離れていく。
「あのぉ、梨花さん……じゃなかった。高宮さんに演奏をリクエストした方ですよね?」
薄暗いピアノの周り。
今、彼女が話しかけているのは、私に曲をリクエストしたあの夫婦。
「ちょっと!」
「待てよ」
ピアノに触れもせず、私の客に詰め寄るその姿に思わず声が出てしまう。
制止する遼の腕を払うと、ぎゅっと拳を握った。
「高宮さん?」
「あ、あのキレイな女の人で……」
聞き慣れない名前を上げると、困惑する夫人。
そして、泣きそうな目で遼を見る、あの子。
……バカじゃないの?
この店には色んな人が来るのよ。いちいち名前なんて覚えてるはずないじゃない。
振り返った夫人が私の方をチラッと見る。
「ああ、うん。あのキレイな女の子ね」
微笑んだ夫人と目が合うと、そのはずみで軽く会釈を返した。
それにしても、なんて適当な説明するのよ。
……恥ずかしいじゃない。