モン・トレゾール
「この曲はお二人の為に、高宮さんが用意した曲なんです」
手元で楽譜を広げると、それを夫人の前と差し出した。
「――だから、私はその曲は弾けません」
その夫婦の周りにいた観客達も、その一言で急にざわつき始める。
頭を上げた彼女が、真っ直ぐに私の方を見る。
濁りもない、澄んだ瞳でそう言った彼女を私は直視出来なくなった。
「だってよ、梨花」
黙りこむ私の横で、遼は呑気に頭を掻いた。
「……私、今結構ダメージ受けてるんだけど」
「だろうね」
勝手に好きになって、勝手に妬んで、勝手に勝った気持ちでいた自分。
片思いみたいに――全然相手にされない恋愛なんかしたら、こんな気持ちになるのかしら。
「だから面白いって言っただろ?」
遼ったら……まるで何かを思い出して笑っているような顔ね。
遼があの子と居てずっと笑ってた意味、少し分かった気がする。