モン・トレゾール
たった一度だけC(ツェー)の音を鳴らすと、彼女は座る位置を固定した。
今にも泣きそうで――情けない表情だった彼女とは一変し、無表情でただピアノの上に着地させた自分の指先を見る。
出だしから優美に奏で始めたそのピアノは、さっきまで慌ただしかった彼女からじゃ想像もつかないほどに落ち着いていてとても完璧な音。
リストの愛の夢 第3番――
別名”3つの夜想曲(やそうきょく)”――ショパンのノクターンによく似た名前。
『おお、愛しうる限り愛せ』
そのサブタイトルにでもなっているように、恋人への愛を歌ったものではなく人間愛そのものを歌ったもので――ドイツの詩人フェルディナント・フライリヒラートの詩が元になって出来た曲。
序奏もなくいきなり主題から始まるこの曲は、伴奏型は主旋律を跨いで低音域と高音域に広がっていて……左手伴奏、右手主旋律という役割分担が明確ではない。
つまり、どちらの手も時に伴奏、時に主旋律、時に両方同時に弾くという複雑な演奏をしなければならない。
そして、この曲の一番盛り上がる38小節目からのアルペジオが――
……とてもキレイ。
この子、本当にピアノをやめてたの?