その輝きに口づけを

2 マスカット


東京に越してきた時に借りた1Rの部屋は、改装されているため外観の割に中はきれいだ。厳選した服が少しと、なぜか増えがちな本とマニキュア。お金をかけてそろえたこだわりの調味料と無農薬のお米。9畳広い部屋はシンプルだが、わたしを幸せにしてくれるものであふれている。
その中に、またひとつ新たな仲間が加わった。
「買って、しまった」
わたしは梱包をあけ、中身を神妙に取り出した。そしてその瞬間期待と恥ずかしさのあまりベットに倒れ込む。
我ながら影響を受けすぎだろうとは思うが、わたしは美貴から話を聞いたその日の晩に膣トレグッズをネットで購入してしまっていた。同時に、ヘアオイルや香水なども少々。
だって、購入後の口コミ・体験談の欄にあんないちゃいちゃラブラブな話が盛りだくさんで記載されていたら、買うでしょ!女なら。
働き盛りでひとり身といったら、そこそこお金に余裕もある。幸せいっぱいなコメント読んでひとりテンションをあげながら、ポチポチためらいなく購入ボタンを押していた。
女性ホルモンは男性に触れられることで出ると女性誌に書いてあってあせっていたけれども、この方法でも出せるならやるしかないでしょ。
いざ。わたしは電気を消すと、膣トレグッズを片手にベットに向かった。

「で、どう?わたし何か変わった?」
再び某居酒屋。相変わらずハンサムな青年に、わたしは期待の目を向けた。ミリタリー調のジャケットに綿パンというラフな格好はとても彼ににあっているけれども、会社員には見えない。そういえばカメラマンだと言っていた後輩は困惑の隠しきれない笑顔で首をかしげた。
「えーと、髪でも切りました?」
「……切ってない」
あーあ、やっぱり駄目かあ、とわたしは身体を椅子の背に預けた。
「なに、なんなの」
いぶかしげに眉を寄せる筧に、わたしは答えた。
「女性ホルモン。今出す訓練してるの」
ついでに、マスカットの香りがするというヘアオイルも塗ってきた。この様子では、こちらについても全く気付いていないようだ。そんなわたしの落胆した様子に、一方の筧は呆れ顔だ。
「青さん、それってだそうとして出せるもの?カメハメ波じゃないんだから」
「だって女性誌に書いてあったんだも―ん」
わたしは膣トレ特集を行っていた雑誌を思い浮かべながら答えた。
「ふうん。で、訓練ってどうやんの?」
「え?!えーと……」
さすがに膣トレというのははばかられ、雑誌に載っていた別の方法を思わず口にする。
「こ、腰まわし?」
「へえ。なんかえろいなあ」
「そ、そうかな?!」
腰まわしでエロいなら、膣トレなんて口が裂けても言えない。
「でもどうしたの、急に。そんなにはりきっちゃって」
「急に恋人がほしくなっちゃってさ。なんか、こう、後ろから抱きつかれて「かわいい」とか言われたいの!」
「まあた変なドラマでも見たんだろ」
「違うってば」
口コミに載ってた体験談を読んだだけだってば。
思いだして、ふと赤くなる。そういえば、体験談を自分に当てはめて楽しんでいるとき、相手のビジュアルがどうしても筧になってしまい、焦ったのだった。この子の外見って完璧なのだと、気恥ずかしさと共に思い出した瞬間だった。相手がハンサムだと意識すると緊張してしまうため、あえて考えないようにはしていたけれど。
ああ、そうか。わたしに今まで恋人ができなかったのは、この緊張癖もあるかもしれない。でも、もうそんなことも言っていられない年齢だ。お互いを大切にすることで学ぶことや磨かれる感性もあるだろうし、恋愛というスパイスのない人生は、やっぱりちょっと残念だと思う。
それに、使わなきゃ締まりも悪くなるというし。感度だって抱かれて磨かれるって雑誌に書いてあった気がする。感度……感度ねえ。
「やっぱり感度はいい方がいいのかなあ」
何も考えずに口にした瞬間、食べることに集中していたらしい筧が、盛大にむせた。
「――ごめん。これはわたしが悪かったや」
「全然問題ないっすよ」
どこか恨めしげに筧が言った。

送る、の一言と共に、筧はわたしの返事を聞かずに横に並んで足を進めた。
「別にいいのに」
「今日はだめ。青さんのこと見てるやつがいるから。――気のせいだと良いんだけど、一応心配だから」
「ん?ああ、そう言えばトイレの前で話しかけられたかも。あの人かな」
「そういうことは、言っておいてよ!」
「だってすぐ忘れちゃったし……それにちゃんと断ったよ?友達と飲んでるからって」
「ばっか!男と飲んでるんだから、彼氏とって言っておきなよ!馬鹿正直に答える必要ないだろ」
珍しくちょっと怒ったような筧の様子に、わたしは驚きながらも楽しくなって、はは、と笑った。
「言って良かったんだ。だったら正直に白状するけど、実は恋人と飲んでるって言っちゃった」
「…………」
「怒った?」
「いや、意外とちゃっかりしてて驚いてる。慣れてるね。こんなことは良くあるの」
「うーん、まあ女として生きてたら色々あるからね」
彼は、そっか、とただつぶやくように言った。
「だからしっかり守ってあげなよ、彼女さん。女ってホントに大変なんだから」
「別れた、半年前に。――次に恋人ができたら、そうする」
「え?!そ、そっか!」
思わぬ地雷を踏んでしまったことにうろたえながら、わたしは筧の背中を励ますようにポンポンと叩いた。
「こんな素敵な子と別れちゃうなんてもったいない話ね。すぐにいい人見つかるから、元気だしなね」
その言葉に筧は、中学生相手かよ、と笑うその表情は、笑顔なのに心なしか、何かを思い巡らすように沈んでいる。飄々としているようで情の深い子なんだな、と勝手に解釈をしてその想像に胸を痛める。
「今度、整体でもマッサージでも足つぼでもしてあげるからさ」
「本当に?!」
言った瞬間、筧の表情から暗さが一気に吹っ飛ぶ。いつも思うけれど、男性に対する「整体」や「マッサージ」という言葉の効果はすごい。筧の変わり身の早さに気圧されながら思った。みんな本当に疲れているんだな。なんにせよ、ちょっと気が紛れたみたいで良かった。
そんなことを思っていると、筧が突然わたしの腕を引き、方向転換した。
「青さん、こっち。ここからなら、おれの部屋の方が近いから」
――まさか今から?
すっかりオフモードだったわたしは、これからもう一仕事しなきゃいけないのか、と顔をひきつらせる。それに、わたしと筧の間柄とはいえ、さすがにこの時間に男性のひとり暮らしの部屋に上がり込むことにためらいを覚えた。
筧に彼女がいないというのも、別の意味でまずい気がする。無防備に部屋に上がり込んで何かがあった時、言い訳がきかない。
やはり、断ろう。そう思って彼を見上げた時だった。
「うっれしいな。重いカメラ一式抱えて一日中立ちっぱなしでしょ。もう体中が痛くてしんどくて、大変なんだ」
そう言って、にっこりと笑う。色々考えすぎていた自分が、何だか恥ずかしくなる程の邪気のない笑顔だった。
「……今度おごってよね」
思わず飛び出した自分の言葉に、ああ、しまったと頭を抱えるが、もう遅い。
「まかしといてよ」
筧のその言葉に、わたしは完全に逃げ道を失ったことを知った。
でもまあ、もし何かあったとしても、この明らかに草食系の青年相手なら安全だろう。それに、ほんのちょっとの緊張する場面くらいなら、こんなにハンサムな相手だ。悪い気はしない。人生に刺激は、やっぱり必要だし。
そう結論付けて、わたしは彼の後を追った。振り返って足をとめていた後輩の顔は、純粋に整体を楽しみにしているように見えて、色々言い訳を重ねている自分に対して、やっぱりちょっと恥ずかしくなった。

「ただいまー」
「おじゃましまーす」
靴を脱いで玄関を上がると、男の子にしてはきれいに整頓された、でもやはりどこか掃除の甘い台所が見えた。
「それにしても青さん」
ヒールのない分、いつもより高い位置から筧の声が降ってくる。
「いつも、こんなに簡単に男の部屋に遊びに来ちゃうわけ?」
言いながら、後ろ手でかちゃりと鍵を閉める。やれやれと言いたげな呆れ声に、わたしは口を曲げた。
「まさか。わたしはバリアが強すぎて恋人ができないのでは、と言われたことだってあるのよ。ちゃんと遊びに行く相手は選んでるって」
胸を張って答える。揶揄を込めて言われた言葉だが、そのおかげで今まで無事ですんだ場面も多かったので、わたしにとっては褒め言葉だ。
「ふうん、それならいいけど。それより青さん、飴かなにか食べてる?さっき道を歩きながら、ずっと気になってたんだけど」
「飴?いや、食べてないよ」
言った直後に、ヘアオイルのことかと思い当った。反応を試してみようと塗っていったものの、気づきもしないのでトイレでもう一度多めに塗りなおしていたのを忘れていた。
「甘い、匂いがする」
筧の言葉に、わたしはわざとらしく一瞬考えるそぶりをしてから、ああ、とつぶやいてみせた。
「マスカットの香り?それならわたしの髪の香りだと思う」
そう言って、髪を手櫛ですき、香りを拡散するように軽く頭を振った。この距離でようやく香るということは、実際に誰かに使う時は意識して距離を縮めないといけないなあ、なんてぼんやり考えていたために、反応が遅れた。
そっと髪に触れる感触に驚いて顔をあげると、いつの間にか筧が体温すら感じられそうな至近距離から手をまわし、わたしの髪に触れていた。無心に髪をいじる年下の男の子の様子に、いつもならかわいらしさを覚え、からかう場面だった。だがそんなほほえましい様子とは裏腹に、2人を取り巻く空気が甘く張りつめていく。合気道においてはありえない程の間合いの近さに、じわじわと鼓動が早まり始めたその瞬間、身体の奥底からピリッと電流が走り抜けた。――本能が知らせる危険信号。これは、まずい。
この空気を冗談でひっくり返したくて、わたしはおどけて言った。
「どう。なかなかそそられる、髪でしょ?」
言ってから、火に油かとあせったが、その言葉に筧は少し笑ったようだった。そんな笑顔の気配に釣られてほっと息を吐いたのもつかの間で、わたしの身体はすぐに困惑で固くなる。
筧が指を髪に絡ませたまま、静かに顔を近づけてきたからだ。
まさか、と思った。まさかわたしの身にこんなことが起こるはずがない。
慣れない間合い。身を引きたかったが、そんなおびえるようなそぶりを見せたら、自意識過剰だと呆れられるかもしれない。そんな考えに縛られて、身動きすら取れなかった。
筧の唇が、わたしの唇に触れるまで。
長い指がゆっくりとわたしの髪をすいていく。掴まれた右腕が痛くて、熱い。
問いかけるように視線をあげれば、笑顔の欠片もないひとりの男がわたしをひたりと見つめていた。
――つい先ほどまで安全だと確信していたはずの、男に。
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