先輩上司と秘密の部屋で
「……ああ」
やがて落ち着いた低い声が響き、身体から緊張が解けていく。
もしかしたら無視されるかもしれないと思ったが、それは杏奈の杞憂に終わった。
「おい黒谷。お前、ちゃんと挨拶くらい……」
「あの、いいんです門倉さん。……お忙しそうですし、私、ほんとに全然、大丈夫ですから!」
「でも……」
嵐士の態度を咎めようとする門倉を、杏奈は席から立ち上がり、慌てて宥めすかす。
(状況を飲み込むことで精いっぱいなのに……! これ以上混乱させないでっ)
高校時代何も非のない嵐士から逃げまくってしまったことを、多少記憶が薄れても、杏奈は心のどこかでずっと悔やんでいた。
いくら恥ずかしかったと言っても限度がある。嫌われて当然だ。
昔嵐士はさぞ不愉快な気分を味わったに違いないと、少し大人になった杏奈は猛省する。
すれ違う度に舌打ちが聞こえたし、鋭い眼光を向けられることもあった。
やがて杏奈は存在を消されてしまったかのように、視界にすら入れてもらえなくなったのだ。
過去に嵐士から明確な嫌悪を向けられた経験のある杏奈は、たった一言でも嵐士が反応を見せてくれたことに、この上ない喜びを感じていた。