彼方の蒼
7.恋してるからね
 バレンタインデーの収穫は、僕とカンちゃんのぶんを合わせてもゼロだった。

「受験生だからな」 
とカンちゃんが言い、
「不景気だしね」
と僕も話を合わせた。

 大本命からもらえないのなら、別にどうだっていいイベント。


 だけどライバルの現況は気になる。
 そういうときに限って、ばったりと出くわすものだ。
 現場は保健室前――敵地だ。
 風邪が流行していて、なかなか繁盛している様子。
 僕とカンちゃんは体育の授業からの戻りだった。 

「元気そうだな」
と、石黒。
「学校に来れば、毎日会えるから」
と、僕。

 石黒は軽く頷いて、僕の顔を観察した。

 良心の呵責か、単なる保身か、わからない。
 昏倒するほどの力で石黒が僕を殴ったことは、カンちゃんにしか喋っていない。
 黙っていたら、カンちゃんは僕の怪我の全部が自分のせいだと思い込んでしまうから、言わずにはいられなかった。


 石黒は言った。 
「綺麗になったな」
 僕も答えた。
「恋してるからね」

「傷跡が消えたって意味で言っているんだ」

「癒してくれる人がいるからね。すごく近くに。僕の席は教卓のすぐ前なんだ」

「姿の見えない時間の方が不安になるんじゃないのか。俺の部屋がどこにあるのか、まさか知らないはずもないだろうに」


「気の毒に思うよ」
 僕は少し考えてから、石黒を下から睨む。

「倉井先生と同じアパートに住んでいるんだっけ? 探していた男子生徒が、よりによって倉井先生の部屋から出てくるなんて、驚かなかった? っていうか、あのときの僕たち、隠しごとの気配がありまくりで怪しすぎたよね」


 せんせー、入り口閉めてよ、寒いよという声が保健室のなかから聞こえた。
 石黒は僕を見下ろしたまま、後ろ手に戸を閉めた。僕にとってもそれは好都合だ。

「もしかしたら、その教え子に香水の移り香があったかもね。さすがにもう残ってないだろうけど」
 
 
 表情を変えなかった石黒の頬が動いた。

「惣山、おまえ」
 険のある声色に、たまたま通りかかった生徒が驚いたような顔をしている。

「あーあ。僕もずいぶん嫌われちゃった。まえは『君』って呼ばれてたのに『おまえ』だってさ」


「覚えておいたほうがいい」
 流れを完全に無視して石黒は言う。

「あいつは、言わないと決めたことはどんなに親しい間柄でも決して口を割らないんだ。弱音すら吐かない。なにを話したか知らないが、あいつの言ったことがあいつのすべてだと思っているのだとしたら、思い上がりもいいところだ」

 それは、本当に石黒の言葉通り、僕が覚えていたほうがいい事柄なのかもしれなかった。


 思い上がり、か。
 痛いとこ突いてくる。
 大人のくせに僕とやりあっただけのことはある。

 僕は内心とは裏腹に、なに食わぬ顔で隣のカンちゃんを促してその場をあとにした。
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