喩えその時が来たとしても
「クゥウン……くわぁぁあおん」
でっかい口を開けてアクビをしながら伸びをする兄(アニ)ラドールリトリバーの仔犬。伸びをしているのに丸まっこい所が堪らなく可愛い。しかし中身は兄貴だ。スリスリしたりベロベロチュッチュするのはよしておこう。
『おう哲也。あ、母さん久し振り』
「ぎゃっ!」
そう言ったきり母は、ヘナヘナとへたり込んでしまった。解らないでもない。仔犬がいきなり喋るのだ、そのショックは計り知れない。
「母さん。兄貴だってば」
『やっぱり……刺激が強過ぎたか。でも今度は哲也にも俺の声が聞こえているようだな』
そう言いながら後ろ足で首の辺りを掻いている仕草は、やはりラブリーな事この上ない。ハムスターよりガラが大きいからなのか、今回は兄貴の声が明瞭に聞こえる(いや、感じ取れるの方が正解だ。頭の中で声がするのだ)
「ほれ兄貴、首輪するぞ」
あのペットショップで買わされたこの首輪。高級車のステアリングを巻いている革素材で出来ているというそれは、朱色と黒でデザインされた、スパルタンなイメージの首輪だった。
『これ、オシャレだよな。俺も気に入ってんだ。だが哲也よ、母さん起こさなくていいのか?』
いかん、忘れてた。
「おいおい、しっかりしてくれよ母さん。だから事前に話しといたのに……」
「犬が喋った、喋ったのよ犬が!」
正気を取り戻した母の慌てようは半端じゃなかった。
「哲也も聞いたでしょ? 私が犬の事『母さん』って言ったのよ!」
「反対だよ母さん。それにこの犬は雅也兄貴だ。兄貴の生まれ替わりなんだよ」
『そうそう。成りは見ての通り、まんま犬なんだけどな。俺は雅也だ』
「嘘、また哲也の冗談なんでしょ?」
俺の妄想癖の源流はここに有る。相手をするのも些か面倒なので後は兄貴から説明させる事にした。
「解った、解ったよ。俺はちょっと表に出てるから、二人で話せばいいじゃん」
俺は家を出て近所のコンビニまで歩いていた。すると上から怒鳴り声がした。
「危ない、下がって!」
思わず飛び退くと、目の前で鉢植えが炸裂し、顔から足までポツポツと泥はねを浴びてしまった。
「まじかよ、これ!」
俺は命の危険が有った事よりも、最近部屋着にと買ったジャージが汚れてしまった事に憤りを感じていた。声のした方を見上げてみたが、ベランダから覗いている顔も無ければ「すいません」の一言も無かった。