真夜中の猫

歩道橋の上で

年が明け、寛美の母から連絡があった。病院で働くように勧められた。親からすれば寛美の生活は不安定で心配のようだった。
確かに看護師として定職に就いたほうがいいことは明らかだった。
病院はすぐそばにあって公務員として働ける好条件だった。バイトのママさんに相談すると、手ばなしに再就職を喜んでくれた。
「いつまでもここにいてもダメ。うちもそろそろ若い子にチェンジしたいしね!」
寛美は悩んだ。今まで看護師としてきちんと向き合ったことがなかったからだ。こんな私でもまたやって行けるかな。寛美は思い切って看護師として病院で働くことを決意した。

亮は仕事にも慣れ営業成績も良く、取引先からの受けも良く可愛がってくれる社長さんなんかもでてきた。その中からぜひ亮にやってもらいたい仕事があると、あるレストランの店長にならないかと話がきた。今の仕事は気に入っていたが、ノルマもあるし、成績の悪い月は居心地が悪かった。それに成績のいい方だった亮は違うことにも挑戦したい気持ちがあったし、何より自分を見込んでくれたことが嬉しかった。
亮はその話を受け、転職した。
レストランはバイキング料理で資格など何も持っていない亮にとっては始めての世界だった。店はランチもしていたが、忙しいのは夜だった。亮は昼前に出勤して店を24時にしめ、売り上げを夜間金庫にいれてから家に帰るともう2時に近かった。クタクタな体でシャワーを浴び、隣りの部屋で寝ている寛美を起こさないように静かにビールをあけた。
ふすまがカリカリと言ってすっと空くと、さやかが亮の疲れを癒しにやってきた。
さやかはいつものようにノドをゴロゴロ鳴らしてお腹を見せて甘えてきた。亮もさやかの小さい頭を撫でお腹をさすって可愛がった。
「おかえり。」
ふすまの間から寛美が寝ぼけた顔ででてきた。
「おこしてごめん。寝てていいよ。明日は朝から仕事だろ?」
「うん、ごめんね。先に寝てるね。」
寛美は3交替勤務だったので2人はすれ違うことが多くなった。
亮は朝はゆっくり寝ているので寛美は1人で朝ごはんを食べて出かけたし、夜勤の時は亮に会わないまま仕事に出かけ、帰ってきても今度は亮が仕事に行き、それぞれ自分の時間を過ごすことが多くなった。
それでもたまに一緒にいる時は亮が寛美を後ろから抱きしめ、そのまま2人でゲームをして過ごしたりした。あまりケンカはしなかった。お互い気まずい雰囲気が苦手だったので、ちょっとしたことは胸の奥にしまった。

そんな時、亮はまた引き抜かれるように転職した。今度は不動産会社だった。もともと建築の仕事もしていたし、少しは通じるところもあるかと思えば、全く違う世界だった。
賃貸業からやることになり、仕事の仕方を一から教わった。アパートの案内ができ、気に入ってもらえ契約できた時は、今までの仕事とは違う喜びがあった。
亮はやっとこの仕事でやっていくと決め、毎日遅くまで働き失いかけていた自信や誇りを取り戻そうと必死で仕事にうちこんだ。

寛美の仕事は順調で仲間にも恵まれ楽しく働くことが出来ていた。
給料も申し分なくもらえたし、何より看護師としてきちんと仕事ができているのが嬉しかった。中途半端に辞めてしまった前の病院のことも役に立つことばかりで、感謝しても足りないくらいだった。スタッフはみんな若く年頃の女が集まれば話題は男のことだった。亮と同棲している寛美はしきりに今後の展開を聞かれた。
「もう付き合ってながいんでしょ?そろそろ結婚とか?」
「そんな話はまだ。」
亮も仕事で精一杯だったし、寛美もこれからまだ頑張りたいところだったので実際まだそんな気持ちはなかった。憧れの気持ちだけは持っていたが現実にはまだ遠かったし、すれ違いの生活にも不安があった。

久しぶりに2人で休みを合わせて出かけることになった。
ここに来てもう2年が経とうとしていた。残暑は厳しく夕方から出かけて外食をすることになった。西日がまぶしかったが、時折吹く風は落ち葉とともに暑さを吹き飛ばし、寛美は上着をはおった。
イタリア料理でパスタとピザをひとつづつ注文し、2人で分け合って食べた。
亮もいつもよりオシャレにきめていたし、同棲するようになってこんなデートらしいのは初めてだった。
食べ終えると店を後にして、すっかり陽がくれて街灯が灯る歩道を2人で腕を組んで歩いた。
「こんなのひさしぶりだね。」
「うん。いつも仕事で忙しくてごめん。」
「またいい仕事見つけられたみたいだし、今が1番大変だもんね。」
亮の度重なる転職をあまりよく思っていなかった寛美も、今夜は応援したい気分になっていた。
「行きたいところがあるんだけど。」
「どこ?」
亮は少し歩くのを早めた。
通りを突き抜けたところにあるのは、亮と寛美が昔別れた歩道橋だった。
寛美は嫌な記憶が蘇るとともに、嫌な予感がした。
亮はなにもいわず、寛美の手を引いたまま階段を上って行った。
まわりは官公街でこの時間に歩道橋を渡る人はほとんどいなかった。歩道橋の上は真ん中が少し広くなり、下の車の往来がよく見えた。
寛美はずっと固い表情で黙っていた。亮は背伸びをしたり吹く風にあたり気持ち良さそうにしていた。
話し始めたのは亮だった。
「昔、ここで別れたんだよね。」
「私がフられたところ。」寛美はため息をついてむくれた
「あれからいろんなことがあったよね。」
「ホントに。」
「いろいろ迷惑かけてごめん。」
亮は寛美を抱き寄せた。
寛美はこれから亮が話す事が怖かった。たしかに生活はすれ違い、亮の転職にはいい顔をせず、新しい仕事にも興味を示さなかった。だけど寛美には亮しかいなかった。またここで別れるのだけは嫌だった。
そんなことを考えていると自然に涙がこぼれた。
「寛美に渡したいものがある。」
亮はジャケットのポケットから小さな箱を取り出した。寛美は思いがけない事に驚きながら箱を受け取った。
「あけて。」
中には寛美の誕生石のアクアマリンのシルバーリングが入っていた。
「今すぐってわけじゃないけど、俺と結婚してくれる?」
寛美は突然の事でさっきまでの悲しい涙が一気に嬉し涙に変わった。
「ほんとうに?」
「本当。返事は?」
「はい。」
寛美は亮に抱きついた。信じられなかった。亮の腕の中で指輪をはめてもらった。寛美の指にピッタリはいった。
「あの時別れたこの場所からまたやり直したいって思ったんだ。」
寛美もうなずいた。
歩道橋の上でふたつの影が寄り添っていた。





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