10円玉、消えた
この日は店が終わっても、源太郎は珍しく家から一歩も出なかった。
いまは居間でビールを飲みながら、のんびりとTVを観ている。

一方幸子は台所で洗い物だ。
源太郎が家にいることで、普段よりは機嫌がいい。
しかし冷えきったこの二人の間には、やはり会話など何もない。
それでも言い争いがないだけマシというもので、実に穏やかで平和な夜である。

洗い物を終えた幸子は、今度は居間に来てアイロンがけをするところだった。
だがスイッチを入れたその瞬間、突然家の中が真っ暗になってしまった。

「あら?」
幸子は素っ頓狂な声を出す。

「ヒューズだ、ヒューズ」
と源太郎。

「おい、懐中電灯あるか?」
暗闇の中で源太郎が幸子に言う。

「ちょっと待って。どこだっけなあ…」
幸子は必死に手探りする。

おかしなことに、この日仕事以外で、二人が言葉を交わすのはこれが初めて。
もっともいまの夫婦仲では、こんなことがない限り会話は生まれないであろう。

「どうしたの?停電?」
懐中電灯の光を照らしながら、竜太郎が二階から降りてきた。

「ヒューズが切れたみたい。それより竜太郎、ダメじゃない。懐中電灯勝手に持ち出して」
と幸子が言う。

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