甘い唇は何を囁くか
なぜ―。

遼子は目をまたたかせた。

そこにいるはずのない姿が見える。

あれは、間違いなく彼の姿。

あんなに素敵な人は、どこにもいない。

私のことを放り投げて行ってしまったのに、どうしてこんなところにいるの…?

どうして、こんな時間に、私の部屋を見上げていたの?

どうして、そんな顔で・・・こっちを見ているの。

とめどなく溢れてくる「どうして」を声にする前に、彼がスイと視線を逸らし歩き出した。

「…あっ!」

遼子は震える声を上げて駆け出した。

寝間着代わりの白いワンピースにサンダルをひっかけて、髪も梳いてなかったから指で撫でつけながらエレベーターを待つのもじれったくて階段を駆け下りた。

胸が早鐘を打っている。

どうしよう―。

どうしよう・・・。

遠ざかろうとする彼の姿を外灯の下に見つけて遼子は声を上げた。

「っ…待って!」

彼は、ぴくりと肩を揺らした。

まるで、それではじめて気がついた、というようにゆっくりと、気だるげに振り返った。

綺麗・・・

月光が射す彼の髪は銀色にひかり、その碧眼はまるで吸い込むように遼子を捉えている。

ああ…!

遼子は胸を抑えて、引きずるように歩み出た。

好きだ。

私、この人のことを好き。

心臓をわしづかみにされたみたいな衝撃が、身のうちをはしり、遼子はもう抗うことはできなかった。

強烈な感情が、身体を震わせている。

遼子は、唇を痙攣させながら呟いた。

「・・・どうして・・・。」



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