甘い唇は何を囁くか
逃げたかった。

あの女が、自分を見つけたとき、シスカは今の自分がたまらなく愚かな者に思え、走り去りたくなった。

だが、それでもノロノロと歩みを進めていたのは、あの女を待っていたい。

あの女が追って来るのかもしれない、そんな考えが・・・あったからだ。

「待って―。」

震える女の声が、背中に届いて、シスカは足を止めた。

振り返るのが、怖い・・・それでも、確かめたくて、その気持ちの方が強くて、ゆっくりと振り返ると女の姿が目に映った。

白いワンピースがまるで金魚の尾びれのようにひらめいている。

なんと、美しいのだろう。

こんなことを思っている自分に驚いていた。

女を、・・・人間の女を愛しいと思っている自分に・・・。

だが、あんな酷い事をして再び姿を見せた自分のことをどう思っているのか、聞くことも憚られ、何も言えなくなって女を見据えた。

こんな時間に、こんな場所で、自分のいる部屋を見上げていた男の姿は、どれほど滑稽なものに映っているだろうか・・・。

怖くなり、逃げたくなる。

まるで、他の女には感じない事ばかりで動揺を隠せない。

「どうして…?」

いつまでも続くような沈黙を割いて、女が言った。

「どうして、ここにいるの…?」

当然の疑問だ。

まず、それを問いかけるのが正しい。

だが、何と答えれば・・・?

お前を・・・お前のことを考えていたらここにいたと、そう言うのか・・・?

女がにじり寄ってくる。

シスカは強い果実の香りに、後ずさり言った。

「自惚れるな!」

たまらない香り。

どういうことだ、これまでこんなかぐわしく濃厚で緻密な上級の香りを嗅いだことなど一度もない。

女が呆然としている。

否、シスカはカッとなって続けた。

「お前ごときの女のために、ここにいたと思うのか?」

そうとしか考えられない状況なのに、どうしてか出てきた言葉は自分の行動をごまかすような台詞で、シスカ自分を困惑させた。

女が、ようやく正気に戻ったのか目を逆三角形に変えて口を開く。

「何よ・・・何よ何よ!そうなんでしょ?私のことを待ってたんでしょ、あなた!」

ズキンと胸がはねた。

あなた、と言われて嬉しかったのか、それとも、その声を聞けた喜びか―。

「はっ、勘違いもはなはだしいな。これだから、小娘は。」

シスカはそう言って、女を見つめた。

女は徐々に距離をつめてくる。

これ以上近付かれるとまずい。

匂いが―。

女は挑むように、けれど怯えた目で俺を捉え、そして言った。

「どうしたいのよ・・・わけ、分かんない。」
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