透明人間
 寝るのにはまだ早すぎる時刻であるが、今日は食パン二枚だけの一食で、稼働時間が一時間四十五分の体を休めるために、私は主寝室へ向かった。

 窓の外を見ると、星がやけに瞬いていた。

 明日から新しい生活が始まるような気がした。


 昇はまだ寝ている。どこへ行く果てもなく、ただごろごろしている。

 私はもとの生活とは少し違う、新鮮な感じを手に入れ、今、掃除機をかけている。洗濯機も回し、たまった洗濯物はすでに外に干されている。今日は二回目の洗濯である。その上、久しぶりにまともな朝食を食べた。しかしテーブルの上に、まだもう一人前がぽつんと残っている。

 そんな生きる希望を取り戻しつつある朝の情景に、電話が妨げた。

「はい、もしもし」

「ああ…私です。鶴見です。朝早くからすみません」

 私は無意識のうちに、顔をこわばらせ、受話器の握る強さも強くなっていた。

「で、どのようなことで」

 声もこわばっていた。

「じつはですね、まあ、喜んでいいのか悪いのか…そちらの判断に任せますが、複数の誘拐だと思われたグループから電話がありました。しかしそれは四種類のグループでした。それで、まったく違う、まったく距離が離れている場所から電話があったので、誘拐での身代金目的はなくなりました」

「…そうですか」

 私は鶴見の言う通り、喜んでいいのか悪いのか分からなかった。しかしどちらかというと、これは恐ろしい出来事の序章だと思った。

「では、また情報が入っ…」

 そして受話器を耳からゆっくりと離し、静かにもとの場所へ戻した。最後に何か鶴見が言っていたが、何も覚えていない。

 私は再びもとの生活を奪われたような気がして、ソファーに腰掛けた。

 今日あったことは何だったのであろうか。洗濯機を回し、朝食を食べ、挙句の果てに家中を掃除機でかけ回した。しかし今は昨日の昇が帰ってくる前と同じ、まるで成虫になりかけたさなぎがまた殻の中へ戻っていくような、結局決心が弱かった。

 霧の中で、雲ひとつない大空に、私の決意が虚無に砕け散った。
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