透明人間
「ああ…ちょっとな…」

 昇はイスに座り、頭を抱えて続けた。

「洗面所で…誠也を見た…」

 私はものすごい勢いで立って、すぐさま洗面所へと向かった。しかし当たり前だがそこには誰もいず、ただがらんとしているだけであった。私は興奮したまま、居間に戻った。

「誠也は、どこ」

 私は気持ちを抑えきれず、爆発寸前だった。

「誠也は…分からない」

 昇はまだ頭を抱えていた。しかし挙動不審そうに体が少し震えている。そのことに私は気付かず、自分のことだけを考えていた。

「え…どういうこと」

「…なぜだか知らないけど、見えた。鏡を通してだが、そこにいた。俺を見てた。トイレを出て手を洗っていた時だった。俺は、ぼーっと手を洗って蛇口を閉めて、その後ふと顔を上げたその時だった。俺の後ろに誠也が立ってたんだ。俺、驚いて後ろを見たんだ。だけどいなかった。俺は幻覚を見たんだと思って、手をタオルで拭こうとまた鏡のほうを向き直った時、また俺の背後に誠也がいて、見つめてたんだ、俺を。俺はまた後ろを見たが、またいなかった。もう一回鏡を見たんだが、もうそこにはいなかった…」

 私は愕然とした。幻覚を二回も、しかもそんな短時間に見えることなんてないと思った。しかしその話し方に、私は昇がウソをついていないように感じた。確かに見たのだが、昇自身がその不可思議なことを目の当たりにして信じていない。というよりも信じることができないようであった。

 先ほどよりかは落ち着いていた私はその昇の気持ちを察して何も言わずにいた。

 そして昇は言う。

「もう、寝る…」

 昇は立ち上がり、居間を静かに出た。

 うっすらとしている居間の光は部屋を照らしているが、裏の部分は隠しているようであった。私はその部分を見ることができない。しかし昇はそれを見ていたのかもしれない。
< 31 / 45 >

この作品をシェア

pagetop