この幸せをかみしめて
「おはようございます」

この村で暮らすなら、挨拶だけはきちんとしろと、きつく敏三から言われていることもあり、麻里子はぼそぼそとした声で、それでも朝の挨拶を公子に返した。
立ちすくんでいる麻里子の隣に立った公子は、麻里子の覇気のないその挨拶に、ふんと鼻を鳴らしてじろりと麻里子を見上げた。
また、なにか小言か嫌みを言われそうな気配に、麻里子は思わず身構えた。

「相変わらず、元気のない娘っ子だなあ。お飯(まんま)は食ってるのか。乳が膨らまんぞお」

最後の一言にムッとしながら、麻里子は余計なお世話だよっと、腹の底で吐き出した。
言葉にはしない。
その代わり、「ん、食べてる」と、小さく頷くだけだった。
麻里子の腹の底など気にもしていない様子で、公子は立ち止まっていた理由を尋ねた。

「どしたんだ。こんなとこに突っ立って」
「あたしのベンチに」

人がいると言いかけて、公子にその言葉を遮られる。

「ふざけたことを言うな。ここのベンチは、みんなのもんだ」

そのもっともな反論には麻里子も納得するしかなく、正しい表現で自分の発言を訂正した。

「……あたしが、いつも座ってるベンチに」
「うん?」
「人が……」

麻里子のその言葉に反応したように、するりとベンチに目を向けた公子は「ああ、あれかあ」と、納得したような頷きを繰り返した。

「ありゃあ、パン屋だべ」
「パン屋?」
「おう。バン屋だあ。なんだ、お前、パン屋も知らんのかあ。街にも、パン屋くらいはあるべ」

この村にパン屋なんてあったかなと、不思議そうに首を傾げている麻里子に、公子は見当違いなツッコミを入れて、杖を付きながら男のほうへと歩いていく。
いや、そうじゃなくて……と思いながらも、公子の言葉は敢えて否定せず、麻里子はもう一度、ベンチの男に目を向けた。
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