この幸せをかみしめて
一方、麻里子が逃げ去った公園では、ほろ酔い気分で心地よい惰眠を貪っていたパン屋こと土橋哲也(どばし てつや)が、公子のその大声に、寝癖がしっかりついている髪を掻き毟りながら起き上がっていた。
ひょこりひょこりと近づいてくる公子を、奇妙な生き物でも見るようにじっくりと眺めた後、哲也はようやく口を開いた。

「……公子さん。今、俺のこと、なんて言いました?」

寝ぼけて、なんか聞き間違えたのかなと言うように首をひねっている哲也に対して、公子は至極真面目な顔で答えた。

「タレ目のプータだよぉ」

杖を足代わりにしてゆっくりと歩いてくる公子に、哲也はパチクリと瞬きをして、やがて肩を落とした。
間違えることなく聞き取ったその言葉に、苦笑いを浮かべつつ、ぼそりとした声で「ひでえなあ」と零す。

「怠け者に、ロクデナシに、ボンクラ息子ときて、次はそれですか?」
「タレ目のプータは、オレが言ったんじゃねえ。まりぼうが言ったんだ」
「……ま、まりぼう?」

聞き慣れないその単語は、どうやら人の名らしいと察した哲也は、それは一体どこの誰のことだと、眉間に皺を寄せて考え込んだ。

(そんな子ども、この村にいたっけ?)

いくら考えても該当する人物が思い浮かばず、哲也は降参とばかりに白旗をあげた。

「どこの子です、その子は?」

素直に教えを請う哲也に、公子はやれやれと言いながら、腰を伸ばした。

「ほれ、そこに」

いるだろうと言葉を続けて、振り返ることなく、ただ杖で後ろを指し示した公子に、哲也はまた首を傾げて見せた。

「……誰も、いませんけど?」
「ん? ……おらんな」

ようやく、麻里子が尻尾を巻いて遁走したことに気づいた公子は「逃げおったな、小娘メ」と、勝ち誇ったような声で言い、立ち漕ぎで自転車を飛ばしていく麻里子の後ろ姿を眺めながら、ケケケケケと楽しげに肩を揺らした。

公子の視線を追って、その姿を斯界に捉えた哲也は、その派手な金髪にライオンみたいな子だなあと笑った。

(いや、逃げ足だけなら、チーターかな?)
(それにしても、派手な頭だなあ。あんな子、この村にいたか?)

姿を見ても、やはりどこの誰だか全く判らないやと肩を竦めて、哲也はまた公子に目に向けた。
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