この幸せをかみしめて
「あれえ、まあ。麻里子はパン屋に、行ったことなかったのかあ」

そっか、そっか、知らなかったかと頷いた喜代子は、あとで地図を描いてやるよぉと、麻里子に告げた。

「……ん」

今日の大失態のあとだけに、正直なところパン屋の男とは顔を合わせたくはなかったが、居候の身の上で否を言うのも躊躇われ、麻里子は仕方なく、喜代子の言葉に頷いた。

うっかりと、買いに行き忘れてしまったってことにしてしまおうか。

そんな不埒な考えも、ちらりと脳裏を掠めて過ぎたが、いやいや、ダメダメとそれはすぐに打ち消した。

「でな、日曜の昼飯に、サンドイッチ、作っといてくれんか」
「ん。判った」
「香奈子んとこの腕白たちが、来るって言うんだよぅ」

日曜はにぎやかだなぁと、やれやれと言う口振りで喜代子は言うが、その顔はニコニコと緩んでいた。
香奈子の子どもなら、二人には曾孫になる。
その子どもたちは「大じぃ」「大ばぁ」と言って、敏三と喜代子に懐いている。
遊びに来ると言われれば、相好が崩れるのも当然だろう。
敏三にしては珍しいリクエストの理由は、そう言うことかと納得した麻里子は、コクンと一つ、しっかりと頷き答えた。

この家の食卓にパンが並んだことは、今までほとんどない。
どんなサンドイッチを作ろうかなと考えだした麻里子に、喜代子はさらに細かい要望を付け足した。

「トシくんは、あれが好きなんだよ。タマゴサンド。マヨネーズたっぷりのな。オレはハムとレタスなぁ。作れるかあ」
「ん。できる」

冷蔵庫の中を思い出し、それならば買い物に行かなくても大丈夫だろうと言う答えを、麻里子は導き出した。

「香奈子の子どもらは、好き嫌いはないから、なんでも食べるよぉ」
「ん」

小さい身体でも食欲旺盛な怪獣たちの顔を思い出し、なにを作っておこうかなと考え始めた。

(ベシャメルソースを作って、クロックムッシュとかはどうかな)
(じゃがいもがたくさんあるから、コロッケを揚げて、コロッケサンドとかでもいいかな)
(何種類かロールサンドを作って、ランチボックス風にしといてあげようかな)

そこまで考えて、麻里子はくすりと笑った。
この家で暮らすようになって、食べることと作ることが楽しくなっている自分に気づいて、なぜか可笑しくなった。

「あとなぁ、クルミの入った丸いパンもな」

わずかな笑みを浮かべている麻里子を目を細めて見つめていた喜代子が、買い物の追加注文する。

「ん。判った」

頬に浮かんでいた笑みを消し、麻里子はいつも通りの短い相槌でそれに応えた。

(胡桃の入った丸いパンって、どんなのだろ?)
(まあ、行けば判るか)
(顔を見られないようにして、速攻で買ってしまおうっと)
(それにしても、こんな田舎でパンなんて売れるの?)

一度だけ見た、どことなく間の抜けているあの顔を思い浮かべながら、麻里子はまたしてもそんな余計なお世話的心配をしていた。
< 21 / 22 >

この作品をシェア

pagetop