ゆとり社長を教育せよ。
「何年赴任することになるかはわからないから、美也ちゃんには仕事をやめてもらわなきゃならなくなるけど……苦労はさせないから」
千影さんの目は、真剣そのもの。
ああどうしよう……理想の男性に、結婚を申し込まれてしまった。
でも、すぐに「はい」と言えないのはどうして?
そう自分に問いかけたときに、ぱっと浮かんだのは……あの、仕事をナメくさったゆとり社長の、あからさまに安堵する表情。
“マレーシア? 行ってらっしゃい。高梨さんが秘書じゃなくなるなんて、残念”――そんな皮肉が聞こえてきそう。
「冗談じゃないわよ!」
「え……美也ちゃん?」
――はっ! 思わず千影さんの存在を忘れて叫んでしまった。
でも、いくら千影さんが理想のひとでも……私、今の仕事を投げ出すなんてこと、絶対にしたくない。
つまり、千影さんのお嫁さんにはなれない……ってことだ。
「千影さん……」
私はプロポーズの答えを言うべく、彼をまっすぐに見つめ直した。
「私、秘書という仕事が好きなんです。それに、今は担当が社長に代わったばかりの大切な時期……
それを中途半端にしたままで、千影さんについて行くことはできません……ごめんなさい」
――正直、逃した魚は、大きいと思う。
けれど、そうやって冷静に思えるってことは、千影さんに対してそこまで強い感情はなかったってことだ。
「そう……残念だな」
寂しげに微笑んだ千影さんは、近くを通りかかった店員さんにバーボンをストレートで頼むと、ほどなく運ばれてきたそれを一気に飲み干した。