虫の本
 …………羽矢が迫る。
 死の直前は時がゆっくりに感じられると言うが、実際はあの速度の矢なら一瞬で俺を貫くだろう。
 モタモタするな。
 早くしてくれ。
 ……羽矢が迫る!
 と、ここで由加の幻が突然口を開いた。
 勿論それは俺の見ている幻なので、声が聞こえたりはしない。
 何を言いたいんだ。
 いや、もういいんだ。
 続きは生き返った後で、たっぷり話をしよう。
 俺達は、これから始まるんだから。
 羽矢が迫るっ!!
 しかし。
 口パクで何かを伝えようとした彼女は、不意に俺から目を逸らしてしまった。
 目を、逸らして。
 彼女の癖。
 俺しか知らない。
 いつもの。
 結論──
「うおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 痛めた右足に走る激痛なんかお構いなしに、俺は目一杯上体を捻る。
 まさに間一髪、こめかみの横を死の塊が通過していった。
 あと一瞬でも反応が遅れていたら、かわす事は出来なかっただろう。
 刹那、背後からの轟音にぎょっとする。
 右足に力が入らない俺は体勢を崩して再びひっくり返り、それでも何とか背後の状態を瞳に映した。
 建物の壁の一角が粉々に粉砕され、瓦礫の山を形成していた。
 爆弾に吹き飛ばされた後のような惨状だった。
 俺の頭を貫くダーツの羽矢だって?
 冗談じゃない、あんなの当たったら死体も残らないぞ。
「どうした、死ぬのが怖くなったか?」
「…………」
 今はこいつから目を離すべきじゃないなと判断し、俺は注意深く天使を睨みながら上体を起こした。
 右足をかばいながら、壁づたいによろよろと立ち上がる。
「ああ、あの威力の事か? 我なりの慈悲のつもりであったが……あれなら苦しむ間もなく逝けるだろうと思ってだな」
「悪い、少し怖くなっちまった」
 俺は頭(カブリ)を振った。
「仕方の無い事だ。ではもう一度──」
「違うんだ、もうあれは必要無い」
 再び右手を頭上に掲げようとする天使に向かって、俺は否定の言葉を告げた。
 はっきりと、拒絶の言葉を投げかけた。
 必要ない、と。
< 26 / 124 >

この作品をシェア

pagetop