僕を止めてください 【小説】
ポータルを潜り、僕はその日から元の世界に戻った。周囲が気になることはなくなり、雑音は小さくなった。期末試験の勉強にも良かった。隆から電話が2回入ったが、僕は出なかった。出てはいけない電話だったし、それ以上に、人がどんな顔をしているとか、どんな気持ちでいるとか、そういうことにも気が回らなくなった。
静かだった。誰にも期待はない。世界のすべてが重りをつけられた溺死体のように、深くて仄暗い水の底にひっそりと横たわっていた。僕はそこの管理人のようだった。一日一食でも生きていけそうな食欲だったが、急激な変化で母親の関心を買うことは避けたかった。僕は淡々と再び生きているふりをし続けた。
期末試験が終わった日の夕方、部屋で長い昼寝をしていた僕を、誰かが起こした。母だった。
「裕、あなたに電話。寺岡先生よ。どうせもうすぐ夕飯だから起きてよね」
「あ…う…んん」
「裕? 聞こえてる?」
「…なに?」
「だからぁ、寺岡先生から電話よ」
「え…ああ…そう」
「はい、子機置いてくから。終わったら持って降りてきてよね」
「わかった…」
子機から保留音が鳴り続けている。僕は朦朧としたまま電話に出た。英語の暗記で昨日は夜遅くまで起きていた。完全な寝不足だった。
「はい…」
「お久しぶり。寺岡だけど…覚えてるかな?」
冗談とも皮肉ともつかないテンションの寺岡さんの声を久々に聞いた。寝起きで舌が回らないが、頑張ってしゃべった。
「あ…はい。忘れる方が無理です」
「へぇ。嬉しいなそれは。元気?」
「あ、まぁ」
「元気とか関係ないのか君は。最近、変わったこと無い?」
寺岡さんはいつものように際どいことを訊いてきた。勘がいいなぁ…というか、推論の結果なんだろうけど。
「いえ…特に」
「ええぇ? 嘘でしょお? 小島君の電話にも出ずにぃ?」
「なんで知ってるんですか?」
「お陰様で小島君から機嫌の悪ーい電話が来たよ。ひっさしぶりにさ」
久しぶりの他人の声はやけに耳に響いた。だからなんですか? と言いそうになったが、突っ込まれそうなので、そうですか…と答えた。