僕を止めてください 【小説】



 5歳というには小さい遺体だった。平均身長より10cm以上小さくて、痩せこけていた。整った顔立ちにはもう苦痛の色はなかった。体中にある青や黄色や赤の、受けた時間の違う内出血の痕。それでも恨みなど無い…親にも、人生にも。そんなことも考える間もないまま、気づくと叩かれて生きることが当たり前になっていた。この子にとっては生きることより死の方が安らかだろうな…そう思うと眠ったようなあどけない顔がなぜか歪んで見えた。あれ…変だな。屍体を見て泣いたことなんて一度もなかったのに。

「ちょっと辛いね…こういう解剖は」

 沈黙を破って堺教授が呟いた。僕はなんと答えていいかわからなかった。僕は心の中で言った。ゆっくりおやすみ。この世は、大変だったね。誰が悪いってわけじゃないこと、君知ってたでしょ。お父さんもお母さんも、君よりもっと大変だった…淋しい世界で生きることが。

 出来るなら、この子を抱きしめて、静かにずっと眠っていたい。いつまでも。

 知らないうちに、手が屍体に伸びて行きそうだった。ハッとしてその右手首を気づかれないように左手で握った。

「…生きている人の世界は…淋しいですね」
「どうしたの? 岡本君…」

 泣いているのを見られたのだろうか。今朝はそれを気にする気力すらなかった。もういいや、頬に落ちるほどの涙ではないから、マスクとメガネで誤魔化せるだろう、と。

「最近岡本君変わったね」

 いきなり話の矛先が僕に変わった。僕は堺教授の不意打ちにドギマギしながら答えた。

「え…? そ…そう…ですか」
「変わった…というか、見せてくれるようになった、というべきかな? 君自身をさ」
「…それは気づきませんでした」
「君は人と少し違うから、あまり自分を見せないようにしてきたのかもね。でもその違いは君の才能だよ。私はそれを尊重したいと思っている。まぁ、思っててもどれだけ君の有利になるかわかんないけどさ」
「…すみません」
「自殺の遺体の解剖の後、具合悪くなる?」

 堺教授はいきなり核心に切り込んできた。心臓がバクンと踊った。

「あ…ええ…ちょっと。わかり…ますか…」
「才能っていうのも両刃の剣だなぁ。江藤君が言ってたことが少し飲み込めた。でもここでは君はよく頑張ってくれてるからさ。捜査の進展も君の助言がよく生きてるし。幸村君もちゃんと以前と違ってずいぶん我々のこと考え直してくれてるみたいだし、この法医学教室にとってもそれは助かるんだ。他のスタッフも君のこと好意的に思ってる。だから余計な軋轢で君がすり減らすのはあまり好ましくないって思ってる」
「…すみ…ません」
「いやいや、謝ることじゃなくてさ。今回のお休みもそれが原因じゃないかなって…いや、間違ってたらごめんなさいなんだけど」

 隠しきれてなかった、ということだけがのしかかってきた。他人というのは敏感なものだと、僕はその堺教授の言葉を聞いて痛感していた。解雇かな。僕を尊重するというのは、ここにはいなくていい、ということかも知れない。やっぱり休んだことは大きいのだろう。この多忙過ぎる職場では。





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