誘導
「うん、私も。」

不意に周りから、椅子を引く音が聞こえだした。ホームルームの時間が近づいているのだろう。時計を見ると、残り休憩時間は一分を切っていた。佐保は、席に戻るね、と目で合図をし、弘樹に背を向けて自分の席へ戻っていった。何時も、佐保が弘樹に話をかけに弘樹の席まで来る、というのが当たり前になっていた。この日も例外では無く、佐保が弘樹の席の前までやってきて、喋っていたのだ。

(俺って、ネット依存症なのかな…。)

確かに、授業中も一コマ毎に必ずと言って良い程、スマートホンを触っている。自分では余り依存症だという意識は無かったが、佐保にそう言われると思い当たる節が幾つもあり、不安になった。最近佐保は、ネットばかりしている自分の事を気にかけている。感受性の豊かな佐保の話は、思わず耳を傾けたくなるような、関心する事ばかりだった。そんな彼女が自分にそう言っているのだ。あながち間違った事は言っていないのだろうと、弘樹は思った。

佐保との会話の途中にスマートホンの充電の減りを気にして、佐保があからさまに非難的な目をして弘樹を見つめてくる時が何度もあった。それなら必要な時以外はケータイを触らなければいいのに。そう言われた事があった。分かっている。分かってはいるが、無意識の内に触ってしまうのだ。気になった事を調べている内に、関連記事などに目がいってネットのスパイラルに陥ってしまう事もある。そして気が付けば、夜が更けていて毎日が寝不足なのだ。

だが今の時代、インターネットは気軽に使えるご時世だ。最近では賃貸の物件を探すのにも、ケータイのアプリを使うのが便利だという事も聞いた事があった。わざわざ不動産まで足を運ばなくても、家賃などの情報が分かるのだ。ケータイも年々インターネットの通信速度は改善され、誰でも気軽にインターネットが、様々な用途に合わせ使用できる。スマートホンが普及してからは、ガラパゴスケータイの不便さに気付かされた。

そんな事をぼうっと考えていると、気が付いた時にはホームルームが終わっていた。担任の教師の口元が、低速再生の様に動いていたのは何となく見ていたが、内容は全く頭に入ってはこなかった。完全にネットの事で上の空だったのだ。相変わらず、クラスの生徒全員が椅子を引いて起立する時の音は頭の奥まで響いた。椅子を引く時のあの耳障りな、低い地響きのする音が弘樹は嫌いだった。


「ねぇ、弘樹。」

「ん、どうした。」

下校途中、佐保は弘樹の隣で歩きながら、少し恥ずかしそうに言った。

「今度さ、一緒に映画を観たいって言ったじゃん?」

「あぁ、新作のよく最近CMに出てるやつでしょ。」

「そうそう、原作から読んでたから、実写映画化するなんてびっくりして…。」

そわそわしながら佐保は言った。

「佐保、作者の大ファンだったよね。」

「そうなの。あの人の書く恋愛小説にははずれが無いの。」

長い駅までの下り坂を歩きながら、佐保はその作者について語りだした。先程までの煮え切らない様子が、まるで嘘のようだった。弘樹は興味があるかのように、適当な相槌を打っていた。佐保がその恋愛物の映画を、早く一緒に観たいという意図がひしひしと伝わってきた。弘樹はそんな中々本題に戻れない佐保を見ていると愛しくて、今すぐ抱き締めたいという衝動に駆られた。

「三ヶ月に一冊のペースで書籍を出版した時期もあるのよ。凄いと思わない?」

「それはすごいね。俺にはとても真似出来ないよ。」

「…ふ。」

急に佐保が吹き出した。

「どうしたんだよ、急に笑い出して。」

「いや、とても真似出来ないって…。弘樹が本を書いてるの想像したら、何だか笑えてきちゃった。」

「なんだよそれ。急に思い出し笑いでもしたのかと思ったよ。」

「こんなタイミングで思い出し笑いなんてしないわよ。」

笑顔の佐保の顔を見ていると、弘樹もつられて笑えてきた。彼女と下校していると、学校から駅まで歩く十数分間が短く感じる。もう少し学校から駅まで遠くてもいいのにな、と思えるほど、佐保と話していたかった。弘樹がケータイを触らなければ、佐保はこんなにも健気で可愛らしいのだ。

「…いつ観に行こっか。」

そう言うと弘樹は、今もまだ声を出して笑っている佐保に向かって微笑みかけた。

「え?」

「映画を観に行く日だよ。佐保がそんなに楽しそうに話してるんだ、俺も気になって観たくなっちゃったよ。」

「…ほんとに?」

「うん。」

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