誘導

誠は戸惑いを隠せなかった。カラオケ店が忙しかった時、酔っ払った二人組の客が居た。その内の一人はもうべろんべろんで、自分の力だけでは歩けない様子だった。もう一人の女性は泥酔した方に肩を貸し、カラオケ店へやってきたのだった。

女性は、泥酔している方をカウンターの向かいにある椅子に寝かせた。慣れた手つきに見えなくもない。おそらく、あの女性はよく酒の飲み過ぎで泥酔するのだろう。彼女は泥酔している友達を寝かすと、そそくさとカウンター前に戻ってきて、急いで財布を取り出した。会員カードを取り出そうとしているのだろう。寝かしている彼女の事が心配なのだろうか、そわそわしていて会員カードを出すのに時間が掛かっていた。

彼女は中肉中背で、顔も平均的で何処にでもいるような女性だった。この時まではそう思っていたのだ。
彼女から会員カードを受け取る時、僅かに手と手が触れ合った。その時、びびっと衝撃に襲われたような感覚に陥った。初めての体験で、あっと声が出てしまいそうになった。

彼女は、竹城叶という名前だった。会員カードの裏に名前を書く欄があり、そこにそう記入されていたのだ。誠は、彼女の名前を覚えたいという衝動に駆られた。何故かは分からないが、胸の奥が熱くなり、名前を覚えておかなければならない気がしたからだ。

「あの、すいません…。」

叶の声が聞こえてきた。普通よりも長い時間会員カードを見ていた誠が不思議だったのだろう。それに、友達を椅子で寝かせているという粗末な処置に、罪悪感を感じてるようにも見えた。後ろを何度か気にして見やっている。

「あ…。失礼しました、確認ができました。」

誠は我に帰り、顔を上げて叶の顔を一見し、会員カードを両手で返した。何故だろうか。最初に叶が店に入って来た時より、声が色っぽく感じられたのだ。顔も直視できずに、すぐに目を逸らした。

「えっと…、一階が満席になっていますので、二階の二十六番席をご利用ください。」

誠は、叶の顔を見ずに、カウンターに置いてあるパソコンのモニターで空席状況を見ながらそう言った。最後に、おしぼりと伝票を渡す時にまた手と手が触れた。すると、またあの電気が流れるような感覚が腕から身体へと伝わっていった。いや、もしかしたらもう一度あの感覚を味わいたくて、わざと彼女の手に触れたのかも知れない。他の客と変わりなく接客をしようと努めていた筈の自分が、こんな事をしているのが不思議だった。

「ありがとうございます。」

叶はそう言うとにっこりと笑った。笑った時に発生する笑窪が可愛らしく、ドキッとして一瞬立ち眩みがした。

「あちらのお連れ様を運ぶの、手伝いましょうか。」

「え、良いんですか。」

「女性一人で連れて行くのは大変だと思いますので…。」

背後で呑気に寝ている叶の友達を思い出し、それを意識するよりも先に口が動いていた。まるで自分の本能が、叶ともっと一緒に居たい、と叫んでいる様だった。誠は平静を装ってはいたが、喋ると今にも声が裏返っていまいそうになった。声帯が強張り、自分の物では無くなったかのように、コントロールが効かなくなっていた。

彼女の友達を背負い、部屋まで運んでいた時、自分では理解できない幸福感が誠に訪れていた。まるで、長い間忘れていた、初恋の女の子と二人でデートをしているような…。

だが、すぐに現実に戻ろうと、誠は頭を振った。
初めて会った女性に対し、このような感情を抱く事は間違っているのだ。自分の脳は彼女を買い被り、運命の人だと錯覚しているのだ。彼女はそんな事は微塵も思っていない。そう思おうとした途端、胸はきりきりと痛み、切なさが増していった。

誤魔化せはしなかった。
これは、他でもなく恋だ。竹城叶という、働いているバイト先で客として来た全く知らない女性に、一目惚れをしたのだ…。

誠は、認めざるを得なかった。だが、伊月に一目惚れはしないと言っただかりだったから、彼のプライドがその事実を、彼から隠そうとしたのだった。
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