誘導
バイトからの帰り、伊月にあのような態度を取ってしまった事を思い出したが、仕方が無い事だ、と諦めの気持ちがあった。初めての感覚が立て続けに起こり、気が動転していたからだ。だが、感の鋭い伊月は、叶への好意を気づいているに違いなかった。叶を接客している時に、横目で階段の傍で立っている伊月の姿を確認していた。彼の視線は完全に誠に向けられているものだった。おそらく、誠の接客態度に違和感を感じたのだろう。
それともう一つ、バイトからの帰り道、小声で彼女の名前を復唱していた事に気づいたかも知れない。何としてでも彼女の名前を忘れたくなかった。その為には、隣に居る伊月の事などどうでも良かった。いや、それだけでは無く、彼女を想う気持ち以外、全てが些細な事に感じられたのだった。
誠が自宅に着いたのは時計が午前三時になろうとしていた時だった。誠は実家暮らしをしており、自宅はアストラムラインの祇園新橋北駅の近くにある古びたアパートだ。交通費がもったいないからと言って自転車で市内まで通っている。
ボロボロの錆びた自転車が犇めいてる駐輪場に自転車を押し込むと、誠はアパートの階段を上り、二階の自宅へ帰宅した。三時にもなっていれば、家族はもう寝ているだろう。誠は、妹と母と三人暮らしだった。父は島根に単身赴任で居ない。
リビングのテーブルに置き手紙が置いてあった。乱雑に書かれてはいるが、読み慣れたのか見やすく感じられた。これを書いたのはおそらく母だろう。置き手紙には、チャーハンが冷蔵庫に入っているからレンジで温めて食べてくれ、と書かれてあった。大して食欲が無かった誠は、冷蔵庫からビールを出して一口飲み、シャワーを浴びて布団に潜り込んだが、叶の事で頭がいっぱいでなかなか寝付けなかった。
酒の力は逆効果だった。頭が冴えてしまい万感の感情が、ビールの泡のように浮かんでは消えていくのだった。隣で寝ている母と妹のいびきも、何時もより気にならなかった。今はそれどころではないのだ。まさか自分が、あんな女性に惹かれるなんて。一目惚れを完全に否定していた自分が、一目惚れをしてしまうなんて。そんな自分を責め立てるような、肯定するような、ジレンマのような念が誠を襲った。
竹城叶という女性の事がもっと知りたい。彼女がもし知り合いに居たら、相談を自分にしてきてくれるだろうか。自分を必要とし、頼りにしてくれるだろうか。そんな事まで考えた。
何時まで考えていたのだろうか。誠は、気づいたら眠りに落ちていた。朝刊を新聞配達が、アパートの傍で自転車を止める音が聞こえてきた所まで覚えているという事は、五時頃まで起きていたのだろうか。母と妹は既に出掛けているようだった。誠は、冷蔵庫の中から例の置き手紙が指しているものであろうチャーハンを取り出して、食べた。中の方までレンジで温まっていなかったが、そんな事はどうでも良かった。
叶と出会った後からは、学校もバイトも、無味乾燥な物に成り代わってしまっていた。日常が急に虚しさで覆われるようで、息苦しくなった。恋愛相談はこれまで以上に他人事の様に感じた。目の前で喋るつまらない女から、早く切り上げてしまいたくなった。自分に好意があるであろう女性に対しても、無情に接した。
「最近、お前の評判悪くなっているぞ。」
伊月が心配したような目で言った。心を見透かしているような彼の目が、何処となく腹ただしかった。
「なんか最近バイト漬けで休む暇が無いんだ。だから冷たくあしらってしまうのかな。」
思い付きで伊月の目を見ずに言った。邪魔だ、道を開けろ、そう思った。
「あしらってるのかよ。今までと急に態度が変わったら、皆びっくりするぜ。」
うるさい。お前にだけは一目惚れをしてしまった事はばれたくない。プライドが許さない。暫くは関わって欲しくなかった。
「そういうつもりは無いけどね。まぁ、これが本来の俺の姿なのかもな。」
「今まで自分を繕ってきたって事か?」
「そうだ。それに疲れたんだ。」
そういうと、誠は笑顔を作ってみせた。が、その笑顔こそが取り繕っている作り物の笑みだった。口角を上げるのに、頬の肉が重たく感じる。これが本来の姿…。
自分で言った事が矛盾していて、滑稽だった。
「そうか、でも無理だけはするなよ。宮内、最近顔色も悪くないぞ。」
「あぁ、ありがとう。」
そう言うと、誠は伊月に背を向けて歩き出した。伊月は何も追及して来なかった。もう今築いている人間関係全てを、シャットアウトして叶の胸に飛び込んでしまいたかった。彼女は何処に住んでいるのかも知らないが。
それともう一つ、バイトからの帰り道、小声で彼女の名前を復唱していた事に気づいたかも知れない。何としてでも彼女の名前を忘れたくなかった。その為には、隣に居る伊月の事などどうでも良かった。いや、それだけでは無く、彼女を想う気持ち以外、全てが些細な事に感じられたのだった。
誠が自宅に着いたのは時計が午前三時になろうとしていた時だった。誠は実家暮らしをしており、自宅はアストラムラインの祇園新橋北駅の近くにある古びたアパートだ。交通費がもったいないからと言って自転車で市内まで通っている。
ボロボロの錆びた自転車が犇めいてる駐輪場に自転車を押し込むと、誠はアパートの階段を上り、二階の自宅へ帰宅した。三時にもなっていれば、家族はもう寝ているだろう。誠は、妹と母と三人暮らしだった。父は島根に単身赴任で居ない。
リビングのテーブルに置き手紙が置いてあった。乱雑に書かれてはいるが、読み慣れたのか見やすく感じられた。これを書いたのはおそらく母だろう。置き手紙には、チャーハンが冷蔵庫に入っているからレンジで温めて食べてくれ、と書かれてあった。大して食欲が無かった誠は、冷蔵庫からビールを出して一口飲み、シャワーを浴びて布団に潜り込んだが、叶の事で頭がいっぱいでなかなか寝付けなかった。
酒の力は逆効果だった。頭が冴えてしまい万感の感情が、ビールの泡のように浮かんでは消えていくのだった。隣で寝ている母と妹のいびきも、何時もより気にならなかった。今はそれどころではないのだ。まさか自分が、あんな女性に惹かれるなんて。一目惚れを完全に否定していた自分が、一目惚れをしてしまうなんて。そんな自分を責め立てるような、肯定するような、ジレンマのような念が誠を襲った。
竹城叶という女性の事がもっと知りたい。彼女がもし知り合いに居たら、相談を自分にしてきてくれるだろうか。自分を必要とし、頼りにしてくれるだろうか。そんな事まで考えた。
何時まで考えていたのだろうか。誠は、気づいたら眠りに落ちていた。朝刊を新聞配達が、アパートの傍で自転車を止める音が聞こえてきた所まで覚えているという事は、五時頃まで起きていたのだろうか。母と妹は既に出掛けているようだった。誠は、冷蔵庫の中から例の置き手紙が指しているものであろうチャーハンを取り出して、食べた。中の方までレンジで温まっていなかったが、そんな事はどうでも良かった。
叶と出会った後からは、学校もバイトも、無味乾燥な物に成り代わってしまっていた。日常が急に虚しさで覆われるようで、息苦しくなった。恋愛相談はこれまで以上に他人事の様に感じた。目の前で喋るつまらない女から、早く切り上げてしまいたくなった。自分に好意があるであろう女性に対しても、無情に接した。
「最近、お前の評判悪くなっているぞ。」
伊月が心配したような目で言った。心を見透かしているような彼の目が、何処となく腹ただしかった。
「なんか最近バイト漬けで休む暇が無いんだ。だから冷たくあしらってしまうのかな。」
思い付きで伊月の目を見ずに言った。邪魔だ、道を開けろ、そう思った。
「あしらってるのかよ。今までと急に態度が変わったら、皆びっくりするぜ。」
うるさい。お前にだけは一目惚れをしてしまった事はばれたくない。プライドが許さない。暫くは関わって欲しくなかった。
「そういうつもりは無いけどね。まぁ、これが本来の俺の姿なのかもな。」
「今まで自分を繕ってきたって事か?」
「そうだ。それに疲れたんだ。」
そういうと、誠は笑顔を作ってみせた。が、その笑顔こそが取り繕っている作り物の笑みだった。口角を上げるのに、頬の肉が重たく感じる。これが本来の姿…。
自分で言った事が矛盾していて、滑稽だった。
「そうか、でも無理だけはするなよ。宮内、最近顔色も悪くないぞ。」
「あぁ、ありがとう。」
そう言うと、誠は伊月に背を向けて歩き出した。伊月は何も追及して来なかった。もう今築いている人間関係全てを、シャットアウトして叶の胸に飛び込んでしまいたかった。彼女は何処に住んでいるのかも知らないが。