男嫌いな“淑女(レディ)”の口説き方
「【相手が落ち着く、安心できる環境を作る】…仕事中であれ、プライベートであれ、とても大切なことだね。忙しさを言い訳にしてはいけないが、忘れてしまうね。ダメだな…肝に(めい)じよう。」

「いえ、大したことはしていません。ただ、精神・心療内科に勤務している姉が【じっくり話を聞くこと】を意識しているようなので、それを実践してみたまでです。……社長、後々必要になるのでパソコンだけ起動して置かせておいて下さい。」

「そうか…。君のお姉さんが…。…ん?あぁ、良いよ。準備しておくといい。」

社長は納得するように「そうか。」と呟くように言った。

「さて、姫野さん。落ち着いたようだし始めようか。質問していくけれど、緊張せずにリラックスして答えてもらえればいいから。」

社長のこの一言で、〔開発営業部〕へ異動するための最終交渉が始まる。

「まずは、姫野さんの意思から確認しようか。あなたは1年ほど前から部署異動の希望を出していた。…その気持ちは今も変わりない、ということで間違いないかい?」

「はい、変わりありません。1年前は異動の希望は出していたものの…行きたい部署というものはありませんでした。しかし、今改めて希望をお伝えするのであれば…〔開発営業部 営業第1課〕への異動を希望します。」

私の意思が固いことを伝えるように、ハッキリと申し出る。

「その理由を改めて聞かせてもらえるかな。1年前に我々が聞いたもの、それ以降でプラスされた理由があれば…それも。それから、すまないね。"やっと"という感じになってしまったが、今日は我々も同席しているから常務にも話してやってくれないか?…彼が感情的になったりしたら必ず止めるから。…あぁ、そうだ。今は役職を気にせず話して構わないよ。」

社長は物腰柔らかに、でも真剣な眼差しで私に話す。

「はい。ありがとうございます、社長。」

「さっきから何なんだよ!1年前から異動希望出してたとか…社長や専務には話せて、僕には話せないなんて…。僕は君の直属の上司だよ?」

ほら、"また"だ。

【自分には話が無かった】、こんな事実があったとしても"自分に落ち度があったかも?"とは考えない。むしろ、"上司には当然報告するだろう"ぐらいに思ってる。

そんな態度が、苦手だってことも…あなたは気づいていないのでしょうね…。

「言えるわけがありません。異動の理由の1つが、常務…あなたなんです。今のように、あなたは一度感情的になると誰かが怒鳴って止めるぐらいしなかったら、止まらないじゃないですか…。そんな人を相手に、1対1で話をするなんて"今"の私には怖くて…とてもできません。」

「…怖い?どういうこと?」

「もし、常務に異動の件をお話ししたとして…。あなたは感情的にならずに私の話を聞いてくれましたか?…『僕のこと嫌じゃないくせに~。』と話をすり替えたり、『僕のどこが気に入らないんだよ!』って声張り上げたりしませんでしたか?」

「それは…。」

やっぱり言い淀むのね、どこまでも自分本位なあなたが…私はやっぱり苦手だわ。

「その可能性があるかもしれないと考えたら、なかなか切り出せませんでした。…ここからは、私の身の上話に少しお付き合い下さい。」

"いよいよ常務に話さなきゃいけない時が来たか"と思い、私は覚悟を決める。

「大学時代に、とある【事件】に巻き込まれてから男性が怖くなりました。常務が、今までどれくらい本気で…この件を受け止めてくれていたのかは分かりませんが。どんなに言っても、あなたは自分の都合の良いようにしか考えなかったですから。……人と関わること自体に恐怖感や不信感を抱くようになり、私自身が"この人は大丈夫だ"と安心しないと親しく関われなくなりました。…それから、怒鳴るような声も少し苦手なんです。」

無意識に柚ちゃんの手を探して、自分の手を彷徨わせていたら…いつものように握り返してくれる。

「その状況は今も続けていますが、事件後1ヶ月経っても"人が怖い"と思うのが治らず病院で診てもらったら〈PTSD〉と診断され、今も治療中です。」

「〈PTSD〉って…?それに【事件】に巻き込まれたって?」


"それを聞くの!?"と半ば呆れている私の隣で、本条課長が静かに口を開いて…常務を制してくれた。


「常務、今はあえて言わせていただきます。あなた、バカなんですか?…病状なんて軽々しく聞くものではありません。これは耐え難い…異動を考えるには十分な理由になるでしょう。」

彼の…冷静で、時に鋭さがある物言いには萎縮(いしゅく)してしまう人は少なくないと聞く。
だけど、それは彼を上辺だけで見ている人の言葉だと…この瞬間強く思った。

だって。「これは耐え難い。」と言い、彼が私に投げてきた視線には【包み込んでくれるような優しさ】を含まれているのだから。


【何が嫌なのかを分かってもらえない苦しみ】、本条課長には伝わったのね。


そして、「〈PTSD〉とは、"これ"です。どうぞ、まずはご一読下さい。」とPCの画面を常務の方に向けた。どうやら〈PTSD〉のことを説明するために、ネットで検索してくれたみたい。
さらに「姫野さん、大丈夫ですか?…席外れて休憩しますか?」とまで気遣ってくれる。

「大丈夫です。ここに居ます。ただ説明を…。はっはっ…ヒュー。」

どうして今起きちゃうかな…。やっぱり緊張してた?

「あっ、あの時と同じ症状…。えっと、えっと。どうしたら良いんだ…。」

常務が動揺し、社長や専務に(なだ)められている。

ホント…慣れてないのね。
慣れてる方がビックリするけど、これは動揺しすぎね。うーん、頼りない…。

「承知しました、あとの説明は私が。過呼吸の発作が出てるな…ちょっと椅子から下ろすか。姫野さん、ちょっと失礼しますよ。体触れますけど、一瞬ですからお許しを。椅子から下ろしますね。」

本条課長はそう言って腕時計を外し、それをスーツ内ポケットに入れた後、私の背中と膝の裏を抱えて抱きあげた。
そして床に下ろされた後は…そのまま支えられている。

「鈴原、どんな体勢が一番楽か分かるか?」

「本条課長、そのままです。寝かせるんじゃなくて、体育座りに近い状態が良いらしいです。病院の先生が言ってました。」

…えっ。ちょっと待って?柚ちゃん。
この体勢が確かに一番楽よ?私的にも、処置するのにも…。
だけど、これって…いわゆる【お姫様抱っこ】じゃない?

こんなこと考えられる余裕があるなら、もう少しで治まるわね。

それにしても。【お姫様抱っこ】なんて、なんか恥ずかしい…。
それに、"触れられて嫌!"より、"【お姫様抱っこ】されて恥ずかしい"とか思うなんて……。

そんなの、私が一番ビックリしてる。

ただ。確かなことは、【本条課長には触れられても嫌じゃなかった】ってこと。
逆に、安心すらしている自分に気づかされてしまった。

「姫ちゃん。体支えるの…本条課長がやってくれてるけど、私がやる?…このままで大丈夫なら私の手握って。」

ギュッ!

「分かった、すごく安心したんだね。よかった。じゃあ、課長にそのまま支えててもらうよ。えっと。次は…いったん息を止めて。私がお腹に手を当ててるから静かにゆっくりと息吐いてー。はーい、吐ききったら自然に息を吸うよ。上手くできてるよ、もう少し腹式呼吸を繰り返そっか。」

柚ちゃんがいつも通り、上手く呼吸ができるように声掛けをしてくれる。
そしてそれと同時に、彼女は本条課長と「発作の時間は…計るのか?」とか「起きたのが32秒でした。」とか大事なやり取りをしてくれている。

さすが本条課長、処置の対応慣れしてる。

白石先生と本条先生の影響かな…。
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