男嫌いな“淑女(レディ)”の口説き方
「眠ってしまうなんて、ドライバーに失礼ですからできません。そんなこと…。」
「はは、ありがとう。そんな風に言ってくれたのは、“鳴海先輩”と姫野さんぐらいだ。……あとはみんな寝てるな。まぁ。"安心して乗ってくれてるんだな"って思ってドライバー冥利に尽きるけど。……無理に眠れと言ってるわけじゃなくて、"疲れてたら寝ても構わない"って意味だ。今日は気疲れもしただろうからさ…。」
「さすが鳴海部長、分かっていらっしゃる。あー。自分の運転で寝た人が居る時の心境は分かります。……じゃあ、眠くなった時はお言葉に甘えます。」
「あぁ、そうしてほしい。」
こんな会話の後ろでは、俺が好んで聴いているジャズセレクションが静かに流れている。
**
「姉さん、俺のジャケット…姫野さんに。」
俺は、後部座席に脱いで置いておいたジャケットを姫野さんに掛けてくれるよう、姉さんに小声で告げた。
「眠ったのね、今日は寝ても仕方ないと思うわ…。……あんた、このためにジャケット脱いでたでしょー。」
「さぁな……。」
声を潜めて、姉さんとそんな会話をした後は15分弱車を走らせ、姫野さんの自宅周辺までやってきた。
「姫野さん、ここからのナビ頼めないか。姫野さん。」
軽く彼女に声を掛けて起こすと、最初は言語不明瞭な感じで意識を覚醒させてきた。
「…んっ…ふ、ふぁ…本条課長。…あっ!私、結局寝ちゃって……。すみません。…今どこですか?」
この、言語不明瞭で無防備な感じ…破壊力ありすぎだろ!
「いいよ、『寝ててもいい。』って言ったのは俺だ。……悪い。勝手に聞くのもどうかと思ったが、姉さんの記憶を頼りに来れるところまでは来た。……ぐっすり寝てたから起こすの、気が引けたんだ。」
俺に続いて、姉さんも「ごめんね、雅ちゃん。勝手に…。」と謝っていた。
「あっ、ホントだ。自宅マンションの近くです。いえ。とんでもないです、ありがとうございます。…あと、ジャケットも。やっぱりこの香り…。課長の香水だったんですね。」
「苦手か?」
「いいえ。【ウッド系】の香りは、むしろ好きですよ。本音を言うのはちょっと恥ずかしいですけど…今日は"この香り"に何度も助けられました。発作が起きてもすぐ【落ち着く】ことができたんです。」
「そうね。知ってか知らずか、昴が今日この香りをチョイスしてきて良かったって感じ。"自然系の香りなら雅ちゃんリラックスできるなぁ…ありがとう。"って思ってた。」
早く言えよ、姉さん。
まぁ、用途外さなくて良かったけど。
「そうか。あなたのリラクゼーションに一役買えて良かったよ。……それで?ここからどう向かえばいい?」
「あぁ、すみません。……えっと、ひとまず2つ先の信号を右折して下さい。」
「了解。」
姫野さんのナビ通りに、俺はハンドルを捌いていく。
「右折したら、100m直進。そしたら、そこの交差点を左折していただいて50m直進すると…左手に見えてくるはずです。白い外壁の6階建てのマンションが…。」
「了解。分かりやすいナビで助かるよ。」
さすが自身も運転するだけあるな、次の案内を出すタイミングが本当に良い。
…あそこだな、おそらく。
「あっ!ここです、課長。」
彼女がそう知らせてくれたので、俺はゆっくりとブレーキを踏む。
「そっか、ここだったのね。…そういえば、【“奏士くん”に送ってもらう時に目印にするコンビニ】ってどこだったの?」
「さっき左折したコンビニです。」
「あぁ、なるほど。」
姉さんとの会話を終えると、今度は俺に視線を向けてくる姫野さん。
「本条課長。今日は本当にありがとうございました。何から何まで…。スムーズに進むようにプランニングしていただいたり、傍に居て下さったり…。」
「いや、俺は姫野さんの隣に座ってただ見守ってただけだよ。店の手配をしたのは姉さんだし、何より…あなたが行動した結果だ。あなたが俺たちを信頼してくれて、『話しておきたいです。』と言ってくれなければ全ては始まらなかったことだ。…俺は何もしてないよ。…こちらこそ、ありがとう。」
俺は心の内にある思いを、珍しく素直に…口に出した。
「いいえ。異動の交渉をしていただく時からずっとですが、“私のことを肯定的に受け止めてくれる人”が居なければ〈PTSD〉のことを打ち明けることはできませんでした。本条課長が味方で居てくれたからです。“頼りになる素敵な上司”の下で働けること…誇りに思います。」
姫野さん――。ありがとう。
「雅ちゃん。あなたが信頼のおける人に〈PTSD〉のことも含めて自分の話ができたこと、この疾患と向き合う上ではとても大切なことよ…。快方へ大きく前進したわ、今日は頑張ってくれてありがとう。ゆっくり休んでね。」
「“先生”……。はい。」
姉さんにそう返事をして姫野さんはシートベルトを外し、ドアを開け自ら降車する。
エントランスに入るまで見守ろうと発進せずに待っているが、彼女が動き出す気配がない。
「姫野さん?中に入るまで見届けて帰りたいんだが…。どうした?」
「課長…。あの、甘いものはお嫌いですか?」
あぁ、なるほど。
「自分で好んでは買わないが、嫌いではないから頂き物は食べるよ…普通に。ただ、好みを言うなら【甘さ控えめ】の方が好きだな。」
「カカオ70%ぐらいのチョコレートなんかは…。」
「さすが姫野さん。"そのあたり"がベストだ。」
「ふふっ。分かりました。ご迷惑でなければ、"お礼"を――。」
俺が「ありがとう。」と言い、これでエントランスに入っていくかと思いきや、彼女はまだこちらに背を見せようとしない。
「姫野さん?」
「あの…課長。"また"……。」
そんな表情………無意識か?
やめてくれ、"また"の続きを探りたくなる。
「うん?」
冷静に…普通に、受け答えできているだろうか…。俺は。
「えっと…。やっぱり何でもないですっ!おやすみなさい。」
「やっぱり何でもないです。」と、何かを誤魔化すように伝えられ、何を伝えようとしたのかと考えている間に…姫野さんはマンションのエントランスの自動ドアを潜り抜けていた。
"また"か……。
その言葉の続きは――。
彼女の口から直接聞いていない以上、他の言葉である可能性だってあるのに……
"「また会って下さい。」という言葉であってほしい"と願うのは、俺の勝手な我儘だ――。
「"また"の続きを聞かなかったのはさすがだわ。よかった。」
そう言いながら、後部座席から降りて助手席に移ってくる姉さん。
「落ち着いたら、車出して。……“自分が好意を抱いてる女性”に、あれだけいろんな表情を見せられれば理性を保って平常心で居るのは難しい。最後の最後に、一瞬とはいえ“女の顔”見せるしね。……あんたもよく耐えたわ。」
決して茶化すわけじゃなく、優しさを滲ませた声色でそう話す姉さんに…俺はただただ感謝する。
茶化すことも多いくせに、匙加減が憎たらしいほど絶妙だ。
こういうところ、姉さんには一生敵わないんだろうな。
「はは、ありがとう。そんな風に言ってくれたのは、“鳴海先輩”と姫野さんぐらいだ。……あとはみんな寝てるな。まぁ。"安心して乗ってくれてるんだな"って思ってドライバー冥利に尽きるけど。……無理に眠れと言ってるわけじゃなくて、"疲れてたら寝ても構わない"って意味だ。今日は気疲れもしただろうからさ…。」
「さすが鳴海部長、分かっていらっしゃる。あー。自分の運転で寝た人が居る時の心境は分かります。……じゃあ、眠くなった時はお言葉に甘えます。」
「あぁ、そうしてほしい。」
こんな会話の後ろでは、俺が好んで聴いているジャズセレクションが静かに流れている。
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「姉さん、俺のジャケット…姫野さんに。」
俺は、後部座席に脱いで置いておいたジャケットを姫野さんに掛けてくれるよう、姉さんに小声で告げた。
「眠ったのね、今日は寝ても仕方ないと思うわ…。……あんた、このためにジャケット脱いでたでしょー。」
「さぁな……。」
声を潜めて、姉さんとそんな会話をした後は15分弱車を走らせ、姫野さんの自宅周辺までやってきた。
「姫野さん、ここからのナビ頼めないか。姫野さん。」
軽く彼女に声を掛けて起こすと、最初は言語不明瞭な感じで意識を覚醒させてきた。
「…んっ…ふ、ふぁ…本条課長。…あっ!私、結局寝ちゃって……。すみません。…今どこですか?」
この、言語不明瞭で無防備な感じ…破壊力ありすぎだろ!
「いいよ、『寝ててもいい。』って言ったのは俺だ。……悪い。勝手に聞くのもどうかと思ったが、姉さんの記憶を頼りに来れるところまでは来た。……ぐっすり寝てたから起こすの、気が引けたんだ。」
俺に続いて、姉さんも「ごめんね、雅ちゃん。勝手に…。」と謝っていた。
「あっ、ホントだ。自宅マンションの近くです。いえ。とんでもないです、ありがとうございます。…あと、ジャケットも。やっぱりこの香り…。課長の香水だったんですね。」
「苦手か?」
「いいえ。【ウッド系】の香りは、むしろ好きですよ。本音を言うのはちょっと恥ずかしいですけど…今日は"この香り"に何度も助けられました。発作が起きてもすぐ【落ち着く】ことができたんです。」
「そうね。知ってか知らずか、昴が今日この香りをチョイスしてきて良かったって感じ。"自然系の香りなら雅ちゃんリラックスできるなぁ…ありがとう。"って思ってた。」
早く言えよ、姉さん。
まぁ、用途外さなくて良かったけど。
「そうか。あなたのリラクゼーションに一役買えて良かったよ。……それで?ここからどう向かえばいい?」
「あぁ、すみません。……えっと、ひとまず2つ先の信号を右折して下さい。」
「了解。」
姫野さんのナビ通りに、俺はハンドルを捌いていく。
「右折したら、100m直進。そしたら、そこの交差点を左折していただいて50m直進すると…左手に見えてくるはずです。白い外壁の6階建てのマンションが…。」
「了解。分かりやすいナビで助かるよ。」
さすが自身も運転するだけあるな、次の案内を出すタイミングが本当に良い。
…あそこだな、おそらく。
「あっ!ここです、課長。」
彼女がそう知らせてくれたので、俺はゆっくりとブレーキを踏む。
「そっか、ここだったのね。…そういえば、【“奏士くん”に送ってもらう時に目印にするコンビニ】ってどこだったの?」
「さっき左折したコンビニです。」
「あぁ、なるほど。」
姉さんとの会話を終えると、今度は俺に視線を向けてくる姫野さん。
「本条課長。今日は本当にありがとうございました。何から何まで…。スムーズに進むようにプランニングしていただいたり、傍に居て下さったり…。」
「いや、俺は姫野さんの隣に座ってただ見守ってただけだよ。店の手配をしたのは姉さんだし、何より…あなたが行動した結果だ。あなたが俺たちを信頼してくれて、『話しておきたいです。』と言ってくれなければ全ては始まらなかったことだ。…俺は何もしてないよ。…こちらこそ、ありがとう。」
俺は心の内にある思いを、珍しく素直に…口に出した。
「いいえ。異動の交渉をしていただく時からずっとですが、“私のことを肯定的に受け止めてくれる人”が居なければ〈PTSD〉のことを打ち明けることはできませんでした。本条課長が味方で居てくれたからです。“頼りになる素敵な上司”の下で働けること…誇りに思います。」
姫野さん――。ありがとう。
「雅ちゃん。あなたが信頼のおける人に〈PTSD〉のことも含めて自分の話ができたこと、この疾患と向き合う上ではとても大切なことよ…。快方へ大きく前進したわ、今日は頑張ってくれてありがとう。ゆっくり休んでね。」
「“先生”……。はい。」
姉さんにそう返事をして姫野さんはシートベルトを外し、ドアを開け自ら降車する。
エントランスに入るまで見守ろうと発進せずに待っているが、彼女が動き出す気配がない。
「姫野さん?中に入るまで見届けて帰りたいんだが…。どうした?」
「課長…。あの、甘いものはお嫌いですか?」
あぁ、なるほど。
「自分で好んでは買わないが、嫌いではないから頂き物は食べるよ…普通に。ただ、好みを言うなら【甘さ控えめ】の方が好きだな。」
「カカオ70%ぐらいのチョコレートなんかは…。」
「さすが姫野さん。"そのあたり"がベストだ。」
「ふふっ。分かりました。ご迷惑でなければ、"お礼"を――。」
俺が「ありがとう。」と言い、これでエントランスに入っていくかと思いきや、彼女はまだこちらに背を見せようとしない。
「姫野さん?」
「あの…課長。"また"……。」
そんな表情………無意識か?
やめてくれ、"また"の続きを探りたくなる。
「うん?」
冷静に…普通に、受け答えできているだろうか…。俺は。
「えっと…。やっぱり何でもないですっ!おやすみなさい。」
「やっぱり何でもないです。」と、何かを誤魔化すように伝えられ、何を伝えようとしたのかと考えている間に…姫野さんはマンションのエントランスの自動ドアを潜り抜けていた。
"また"か……。
その言葉の続きは――。
彼女の口から直接聞いていない以上、他の言葉である可能性だってあるのに……
"「また会って下さい。」という言葉であってほしい"と願うのは、俺の勝手な我儘だ――。
「"また"の続きを聞かなかったのはさすがだわ。よかった。」
そう言いながら、後部座席から降りて助手席に移ってくる姉さん。
「落ち着いたら、車出して。……“自分が好意を抱いてる女性”に、あれだけいろんな表情を見せられれば理性を保って平常心で居るのは難しい。最後の最後に、一瞬とはいえ“女の顔”見せるしね。……あんたもよく耐えたわ。」
決して茶化すわけじゃなく、優しさを滲ませた声色でそう話す姉さんに…俺はただただ感謝する。
茶化すことも多いくせに、匙加減が憎たらしいほど絶妙だ。
こういうところ、姉さんには一生敵わないんだろうな。