じゃあなんでキスしたんですか?
――ほんと、かわいいなおまえは。
甘くほどけてしまいそうだったはずの低い声が、耳の奥で冷たく響く。
――こういうのは迷惑なんだ。
「ん? どうした」
桐谷さんがわたしの目の前でひらひらと手を揺らしていた。
「なんでも、ないです」
言葉とは裏腹に、心の中には霧が立ち込めたみたいにもやがかかっている。
春の日差しを思わせる、あのやわらかな微笑みを思い出したいのに、うまく描けない。頭のなかの再生装置が故障してしまったみたいだ。
「その女の先輩が辞めてから、森崎さんすげー落ち込んでたんだってさ。付き合ってないにしても、その人のことが好きだったのは確実だろって話。表情の変化がなくなったのも、その頃かららしいし」
桐谷さんの言葉には重みがなかった。
はじめて聞いた森崎さんの噂話。
それは歴史の教科書に載っている史実と同じで、外側から見た形は正しいのかもしれないけれど、そのなかで息をしていた人たちが、実際に何を考えていたのかは、本人たちにしか分からない。