じゃあなんでキスしたんですか?

 
彼の余裕が、たまにどうしようもなく歯がゆく感じられるのだ。
 
会社での無表情を崩したいとまでは言わないけれど、せめて少しでも追いつきたい。
 
わたしがそうであるように、彼にも必死になってほしい。
 

そんなふうに考えている自分に気づいて、唖然とした。
 
ひんやりした空気にまとわりつかれ、クッションを抱える。
顔を埋めると、彼のにおいがして、気持ちが慰められていく気がした。
 

わたしと森崎さんのあいだを埋める経験の差を、ひとつずつ塗りつぶして、わたしも早く大人になれたらいいのに。
 
幸せすぎて、こわい。
 
そんな贅沢な思考の渦にとらわれていると、玄関のほうから鍵を開ける音が聞こえてきた。

「帰ってきた」
 
ソファを立って、廊下を走る。扉が開く直前にフローリングの端までたどり着いた。

「おかえりなさい」

わたしの顔を見て、森崎さんは驚いたように動きを止めた。それから無言のまま玄関を閉じ、ふたたび向き直る。

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