私と彼の恋愛理論
「その本は借りられる?」
その人に声を掛けられたのは、ちょうど昼休憩から戻るところだった。
食後に読んでいたのは、私が昔から好きな作家の小説で。
学生時代の恩師から譲ってもらったその本は、もう何回も読み返しており。
表紙がすっかり汚れたその本を、食べ終えた弁当箱と一緒に抱えていたのだ。
休憩から戻るところだったので、私の首には職員用の名札兼IDカードがぶら下がっていた。
「あいにく、これは私物ですが、同じタイトルのものが確か蔵書にありますよ。」
私は、司書の顔に戻ってそう答えた。
「そう。ぜひ、借りたいな。」
彼にカウンターで待つように伝えて、私はロッカーに自分の荷物を置きに行った。
間の悪いことに、たまたまその本は貸し出し中だった。
そのことを伝えると、彼は残念そうな顔をして、また来るよと笑った。
「この作家、お好きなんですか?」
「そうだね。だいたい読んでいるけど、まだこれは読んでいなくてね。」
たまたま散歩中に立ち寄ったという彼は、ここが図書館であること先ほど知ったらしい。
「趣のある建物で、興味が湧いて。つい、入ってきてしまった。」
この図書館は昭和初期に建てられたもので、文化財にも指定されている。
恋人の尚樹は、中途半端な年代物の建物を維持するより機能的な図書館を建て直した方がいいといつも言うのだが、私はこの趣がある建物が気に入っていた。
最近までイギリスに留学していたという彼は、この街に住み始めて間もないのだという。
この秋から、この街の大学に赴任してきたイギリス文学の研究者だった。
「…よかったら、先ほどの私の本をお貸ししますよ。」
そう提案したのは、彼に妙に親近感が湧いたからかもしれない。
「でも、読みかけだったんじゃない?」
「いえ、私はもう何度も読んでいるので。」
「何だか悪いな。たまたま見かけたばっかりに。」
「いえ、いい作品はたくさんの人に巡り会う運命なんですよ。実は、あの本は人から譲ってもらったものなんです。」
そう言って微笑めば、私の予想通り、彼も笑ってありがとうと言ってくれた。