世界でいちばん、大キライ。
「あの……なんて言っていいのか」

すると、了が手を止めて桃花を見た。
反射的にピッと背筋を伸ばすと、瞳に目に映った了は穏やかに笑みをたたえていて。

「まさかこんな形で……とは思ったけど。でも、いい話だし、俺が桃花ちゃんだったら同じ選択してるよ」
「本当に……ありがとうございます。私、頑張ります」
「うん。頑張って。世界大会でもなんでも、ガンガン優勝とかしてよ。俺そのたび自慢するから。『俺が最初に教えたんだぞ』って」

香ばしい匂いがふたりの間を通り抜けていく。
その香りは共通の思い出を運んで……。

「いつ行くの?」
「あ……具体的にはまだ。店長に一番に相談しようと思っていたので……」
「そっか。じゃあ考えておくよ。ジョシュとも相談していいかい?」
「もちろんです。なるべく負担にならない形で」

了へ思い切って決断した気持ちを話し終えると、さっきまでの緊張感がなくなって、ほっと息を吐いた。

まだ明確にいつまでと決まってはいないが、近い将来この店を去る。
そう考えただけで、ひとつひとつの作業が感慨深く、今まで以上に丁寧に向き合おうと桃花は思った。

注文を取って、コーヒーを淹れて、提供する。
片付けをして、在庫の確認をしながら、客が来店したらまた注文を受ける。

当たり前だった日常が、特別になる瞬間というのはこういう心境の時なのかもしれない。
ふと、そんなことを感じていると、窓際の席が目に入った。

今は別の客が使用しているが、その席には、毎週久志が座っていた。
ただの客と店員だった少し前のあの頃は、その日常が無くなることも、自分が店からいなくなることも想像できなかった。

ずっとこの店で働いていたら、あの席を毎日どんな気持ちで眺めることになっていたのだろうか。

そんな、考えてもどうしようもないことなのにぼんやりと思い浮かべては軽く頭を横に振った。

そうして迎えた閉店時間。いつも通りに仕事を終えた桃花は、恒例のラテアートを自分と了の分二杯淹れた。
それをふたりで飲みながら談笑していると、ジョシュアが現れる。

少しの時間、三人で話をしていたが、桃花は気を遣って先に店を出た。

――その日、結局久志が姿を見せることはなく、桃花もアパートへ帰ると早々に眠りについた。
余計なことを考えてしまう前に。
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