スイートな御曹司と愛されルームシェア
 母のキンキンした声を聞き流し、今度は遠慮もせずに大きなあくびをした。

「あ、そう。おめでとうって言っといて」

 電話口から息を呑む音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、母の怒鳴り声が飛び出してきた。

『あ、あ、あんたって娘(こ)はっ! あんたと同い年の薫ちゃんが二人目を妊娠したっていうのに、何よ、その呑気な声はっ』
「だって、おめでたいことなんだから、おめでとうで間違ってないでしょ」

 咲良は話の流れにかすかないら立ちを覚え、顔にかかるセミロングの黒髪をくしゃりと握って掻き上げた。母が怒りを抑えるように、低く押し殺した声で言う。

『あんたね、今日が何の日かわかってるの?』
「三月十日」

 咲良の興味のなさそうな口調に、母の声が跳ね上がった。

『違うでしょっ。いえ、そうだけど、あんた、今日で二十九歳になるのよ? あと一年で三十路よ、み、そ、じ!』
「そんなに強調しなくてもわかってるってば」
『じゃあ、ちゃんと考えてるのよね?』
「もちろん、ちゃあんと真面目に考えてるよ、仕事のことならね」
『んもーっ!』

(お母さん、きっと真っ赤な顔をしているんだろうな)

 子どもの頃から見慣れた母の怒った顔を思い出して、咲良は小さくため息をついた。三年前、大学を卒業して以来勤めていた大手予備校を、同期入社だった佐々木恭平とともに退職し、共同出資経営者として学習塾を立ち上げた。文学部英文学科を卒業した咲良は、小学、中学、高校生の英語を担当している。塾を軌道に乗せることももちろんだが、教え子の成績を伸ばし、志望校へと導く仕事は大変だがやりがいを感じている。今は高校入試も終わって、やっと大学の前期日程の合格発表があったばかりで、教え子たち全員の吉報に胸を撫で下ろしたところだ。とはいえ、すぐに次の年度の講座が始まるので、プライベートのことを考える余裕など、今はまだないと言ってもいい。

 母が何度か深呼吸を繰り返した後、話を続けた。

『結婚のことだってわからないの?』
「一応はわかるわよ。でも、まだ軌道に乗り始めたばかりだし、今は仕事のことしか考えられないんだってば」
『やっぱりね。そんなことだと思ってた。だからお母さんね、決めたのよ』

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