姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 遠くから悲鳴が聞こえてくる。

 それにかすかに頬を緩めながら、新之助は目的の人物をその視界に捉えていた。

 彼が襖の向こうから部屋を窺っていることにも気付かないで、わたわたと右往左往している侍が一人。

 その様子を、盃を片手に悠然と眺めている男が一人。

 その男は羽織も袴も黒で統一していた。

「まったく、どういうことだ。任せておけば大丈夫だと申したのは、その方であろう?」

 落ち着きない侍が、杯を傾ける男に声を荒げた。

「大丈夫と申し上げたのはクモさまのことだ。屋敷の警備はあなたの役割だろう」

 やれやれと息をつく男の態度に、侍はますます苛立った様子で、男の持つ盃を取り上げてしまった。

「悠長に酒など飲んでいる場合ではなかろう。わしは今度のことが明るみになれば、今までのすべてが無駄になるのだぞ」

「そんなことは知らぬ」

 男はまた盃を取り返すと、なみなみと酒を注いだ。

「し、知らぬとはなんだ!そなたの口車に乗って、わしは後悔しているのだぞ」

 男が侍を見た。

 その刺すような視線に侍がたじろいだ。

「貴様の短慮ゆえの結果であろう」

「な、なに?」

「まあ、よい。貴様は所詮捨て駒。どうなろうが俺の知ったことではない」

 言い捨てると、黒づくめの男は盃を捨て立ち上がった。

 盃から零れた酒が僅かに侍の袴にかかる。

「お、おのれ」

 侍が脇差に手を掛けた。

 それを見て、男が口を歪める。

「俺を斬るか?斬ればクモさまが貴様を喰らうぞ」

「!」

 力なく項垂(うなだ)れる侍の前に片膝をつくと、男が侍に顔を寄せた。

 何か囁いた。

 それは新之助には聞き取れなかった。

 だが、侍の視線で新之助は悟った。

 彼の隠れる襖の方を侍が見たからだ。

「佐伯よ。クモさまに喰われたくなければこの事態を収束させるのだ。そうすれば、格別な取り立てがあるだろうよ」

「……無論、そのつもりだ」

 侍が立ち上がった。ゆっくりと襖に近づいてくる。

 やはり、この侍が親の仇である佐伯なのだ。

 新之助は刀を脇に置き、襖が開かれるのを待っていた。


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