姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
***


 夜の闇の中で、数人の影が蠢く。

 墨で黒く塗りつぶされたように、その場を支配するのは漆黒のみだった。その漆黒に紛れるように俺は藪の中に身を隠していた。

 月明かりもない、本当の闇。

 ことさら強調するように、松明の明かりが木々の間を行き交っている。

 その松明の下で動く、あの影に捕らわれぬように。父母と同じ憂き目に合わぬように。この命さえあれば、と俺は闇の中に飛び出した。

 「いたぞ」「あそこだ」途端背に浴びせられる声に、駆ける速度を増しながら、俺は藪の開けた先にある大川へと飛び込んだ。自分の立てた水音に怯えながらも懸命に手足を動かし、秋の冷たい水に体が痺れてくるのを感じながら、やっとの思いで対岸に辿り着いた。

 振り返れば、松明はまだ対岸。一旦息をついた時、すぐ傍で人の息遣いがした。咄嗟に腰に手をやった俺の手を、思いの外やんわりと大きな手が包み込んだ。

 心臓の音が耳に煩い。そんな俺に低く穏やかな声が囁いた。

「お助け申し上げる」

 短く言うと、その者は立ち上がり、藪の中へ手を入れた。そこから出て来たのは、一頭の馬。

「何故……?」

「今は逃げることだけを」

 暗に早く馬に乗れと言いたげに、男は手綱を俺に差し出した。

(これは、罠か?)

 一瞬頭を過ったが、逡巡している暇はなかった。一瞬のちには馬に飛び乗り、礼を言おうと振り返ったが、そこにはすでに男の姿はなく、川の流れる音だけが聞こえて来る。そして、川を泳ぐ、水音。

 この先には隣国へと抜ける街道がある。俺は馬の腹を蹴った。

 あとは後ろを振り返ることなく、前にだけ進んで行かなければならない。

 冬には雪が積もり、春には山桜と白木蓮が競演する山々を、俺はもう二度と見ることは出来ない……。




***



< 19 / 132 >

この作品をシェア

pagetop