姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 新之助の住んでいるのは、大店(おおだな)の店主が家主で、そのお店(たな)の裏に軒を連ねるようにして建てられている長屋だった。

 一歩木戸を入ると、子供たちが梅雨の憂さを晴らすように走り回り、井戸端ではおかみさんたちが夕餉に使う野菜を洗いながら井戸端会議をしていた。

「こんにちは」

 そんなおかみさんたちに挨拶して通りすぎる新之助に倣って、ゆらも軽く会釈すると、途端に「んまあ!」とい
う感嘆の声が上がった。

 びくっとして立ち止まるゆらを促す新之助の周りに、たちまちおかみさんたちの人垣ができた。

「風間さま。こちらの可愛らしいお嬢さん、どなた?」

 随分気安い。

 武家とはいえ、一介の浪人である新之助に遠慮するところなどないのだろう。

 加えて年よりも幼く見えるゆらを連れていたからか、おかみさんたちは好奇心剥き出しの、遠慮なんか知りません状態で、口々に二人を冷やかした。

 これにはさすがの新之助も参ったようで、「先を急ぐので」と一言呟くように言って、ゆらの手首を掴むと足早におかみさんたちの群れから飛び出した。

「ああん、風間さまのいけず~」

 妙に色っぽい声が二人を追ってくる。

 ゆらは若干顔を赤らめながら新之助に引っ張られるようにして足を動かしていた。

 最後に。

「あとで、そのお嬢さんのこと教えてくださいよ~」

 逃げるように二人は新之助の部屋に滑り込み、音を立てて障子戸を閉めたのだった。



 
 深い溜め息をつきながら、新之助はゆらに上り框に座るよう促した。

「おかみさん連中に捕まったら話どころではなくなるから」

「う、うん。そんな感じだったね」

 軽く笑って、新之助は「番茶くらいしかないんだ」と言いながら鉄瓶を手にした。

「ありがとう」

 障子戸を入れば、すぐそこは一畳ほどの土間で、釜戸や簡単な流しのある台所になっている。

 湯飲みを受け取り、つい物珍しく思って目をやれば、洗って伏せてある茶わんや小皿の他には、あまり料理のための道具はないようだった。

 新之助は先ほど閉めてしまった障子戸を心持ち開け、その前に立った。それから、ゆらの視線に気付いて苦笑する。

「何もないでしょ」

「え、あ、うん……」

「男の一人暮らしって言ったら、こんなもんだよ」

 どことなく寂しげな表情になった新之助に、ゆらは驚いた。

「風間さん?」

「ゆらさんのような人には想像も出来ないだろうけどね。……ああ、別に皮肉を言ったわけではないんだよ」

 慌てて取り繕うように言った新之助。

 そんな彼に曖昧な笑みを返して、「実際、わたしには想像できないから」と自分の暮らしを顧みるゆら。

 城の台所に冷やかしに入ることはあっても、炊事の仕方も掃除の仕方すら分からないゆらだ。

 この長屋で一人で暮らす新之助の暮らしぶりなど想像も出来なかった。

「まあ、俺のことは脇にやっておくとして。おしずさんのことだ」

 その場の空気を変えるように、新之助は普段よりも少し低い声を出した。

「あ……うん」

「さっきの話、もう少し詳しく聞かせてよ」

 そうして、ゆらは道場で感じた違和感について説明した……。
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