姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】
 そんな雨の続く日。

 宗明もこれ幸いとゆらの前に姿を現さなくなって、さらに二日ほどが経っていた。

 新之助の長屋での一件から、一週間ほど。

 その日の夕餉の後、ゆらはやることもないからと早々に床に就いた。けれど、体を動かしていないから、いっこうに眠れない。

 にゃっ。

 すぐ近くで猫の声がしたような気がした。

 ゆらは掛け物の下で身じろぎ耳を凝らした。

 にゃあ。

 やはり猫の声だ。

 大奥に猫のいるのは珍しいことではない。

 奥女中たちの住まいである長局(ながつぼね)では猫がよく飼われている。

 けれど、ゆらの寝所の近くに猫はいない。

 長局から猫が抜け出して来たと言うなら、そうなのかも知れないが……。

 ゆらは褥(しとね)の上に身を起こした。

 不寝番(ねずばん)の腰元たちは気付かないのだろうか。

 そう思い、彼女らに向かって御簾越しに声をかけたが反応がない。

 いつぞやの妖(あやかし)に襲われた夜のことを思い出し、ゆらは小さく身震いした。

 褥から這い出し御簾を少し上げると、思ったとおり腰元たちはその場に突っ伏して眠っていた。

 行燈がまだ小さな灯をともしていたから、真っ暗闇ではないのがせめてもの救いだった。

 が、宗明はもう宿直するのをやめている。

 ここで起きているのは、ゆらだけだ。

 声をあげても誰も来ないかも。

 ゆらは「ひっ」と小さく叫んで、引き寄せた掛け物を頭の上に引きかぶった。

 畳の上に突っ伏して、布一枚で作られた闇の中で、もし妖が出たとしてもこれでなんとか切り抜けようというつもりらしい。

(わたしはここにいません。ここにはいません。いませんよー!)

 『見つけた』と喋った時の妖の地を這うような声が思い出され、全身が総毛立つ。

 このたった一人という状況の中で、もし今またあの声を聞いたなら、ゆらは正気を保っていられる自信はなかった。

 ゆらが(南無阿弥陀仏)と唱えた時だった。

 掛け物のちょうど頭のあたりを、ぺしりと何かが叩いたのだ。

「ひいいっ」

 いっそう布を強くつかんで、決して剥ぎ取られまいと身を固くすると、今度は何かがトンと背中の上に乗った。

「ひゃああああ」

 これはいよいよ妖の餌食だ。

 そう思ったところで、ソレが「んにゃ」と鳴いた。

 とても可愛らしい声で。

「んにゃ?」

 ゆらは引きかぶった布の下で顔を上げた。

 妖が「んにゃ」とか鳴くものだろうか。

 すると今度は背中をペシペシペシペシ叩き出した。

 痛くはない。とても軽いもので叩かれている感じで、むしろ心地いい。

(あれ。これって、ほんとに猫なんじゃ……)

 ゆらはそろそろと被り物から目を出した。それから身をよじって背中の上を見ようと試みる。

 薄明かりの中、ピンと上を向いた尻尾が見えた。細いが、もふもふの毛に包まれている。

(うひょっ)

 俄然ゆらは色めきたった。

 団子が大好物の彼女は、また無類の猫好きでもあったのだ。

「猫ちゃん。どこからきたのかな~」

 文字通りの猫撫で声でそう言うと、猫のペシペシがやんだ。

 くるっと振り向いた猫は真ん丸な目を見開いて、しばらくゆらを見返していた。

 見れば見るほど愛らしい猫に、ゆらはすっかりでれでれだった。

 そんなゆらに向かって猫はふんと鼻を鳴らすと、「はよ起きんかい。ボケ」と鳴いた。

 いや、鳴いたのではない。

 明らかに喋ったのだ。

 人の言葉で。

 猫と同じくらい目を真ん丸にしたゆらは身じろぎ一つできず固まってしまった。

「ふん。鈍くさいやつやなあ」

 こんなんでものになるんやろか。

 ぶつぶつ言いながら猫は、布から目だけを出しているゆらの前にトンと身軽く下り立った。

「うちは、鈴(すず)。京の都から来た、ごっつ可愛らしい猫さんや」

 はい。すごく可愛いです。

 その、お口がなければ……。

 ゆらは瞠目したまま、ただしげしげと鈴と名乗った猫を見つめていた。

 そう。猫が自ら名乗ったのだ。

 鈴と。

 真夜中にひょっこり現れた人の言葉を喋る猫。

 妖でなく、何だというのか。

 一度は盛り上がったゆらの気持ちも、瞬く間に萎んでいった。
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