およしなさいよ、うさぎさん。
初老のお医者さまは篤の左手に真っ白な布をぐるぐると巻きつけ「十日間は使わぬよう」と仰り「他は大事ないでしょう」と診断した。
「しかし、このお顔では色男が台無しだ。お仕事を休まれるようなら診断書をおつかいいたします」
篤は布団の上で両手をついて「先生、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。
「それと……」
「わかっております。篤さまは通行人の喧嘩をお止めになられたということで、兄上さまから伺っておるしだいです」
「ありがとうございます」
お医者さまは診断のための道具を木箱に丁寧にしまってゆきながら、皺のよった顎を撫でた。
「しかし、町では喧嘩がおこったなど噂すらされておりませんぞ」
篤は「そうでございましょうね。あちら側は内密な喧嘩ですから」と冗談をほのめかし笑顔をつくったつもりだが、口の端が切れているので「いたた」と顔をしかめた。
「このようになさるなら、篤さまはわしが息子に欲しかった」
お医者さまはため息まじりにそうぼやいた。
「頭がよく優秀な子ならば、人の痛みもわかろうて立派な医者になれただろうに」
「なにを、もったいないです」
木箱をがたんと鳴らして「よいせ」と立ち上がり「この絨毯というものは草履がひっかかり年寄りには歩き辛いですわい」と文句を残して部屋を出た。
母との約束があるので、篤は布団にごろんと横になり、天井からぶら下がる硝子のランプを眺めながら暇を持て余す。
そうしているうちに菖に会いたくてたまらなくなり、お庭の窓へとふらふらと歩いてゆくとかぶき者のような奴が此方をじろりと睨みつけた。
篤は「この体ではあなたの喧嘩相手はできません。命は惜しいので」と呟き、またごろんと布団に横になった。
女中が運んできてくれる膳にのせた昼飯は味を薄くしたもので、怪我をした篤の傷が痛まぬように柔らかく煮てあるうどんと野菜だ。
女中が茶などを用意していると母がやってきてなんの迷いもなく箸を持ち、篤の口にうどんを運ぶので「自分で食べられます」と言うと「まあ、つまらないこと」とおっしゃり、けれどもその場をはなれず篤が食べ終わるまでじっと眺めていたりした。
昼飯を食べてしまうと眠気がやってきた。うつらうつらとしながら、篤の中には女学校時代の菖がいた。
菖は、特別に秀でた子でもなければ周囲を驚かすような明瞭活発な子女ではなかった。どちらかと言えば、ひっそりと大人しく吠えることもなければ鳴くこともない、まさにうさぎだった。
けれども、学習には意欲的で大人しいながらにも辿々しくいつも真剣に取り組んでいたので、篤は飲み込みの遅い菖を居残りさせて教えることもあったのだ。
ある日、居残り勉強に熱をいれてしまい帰りが遅くなったことがある。
「帰りが遅くなればお家の方が心配なさるでしょう」と篤が言うと菖は「せんせいは、お優しい方でございます。出来の悪い菖の面倒をみて、お家の心配までしてくださるのですね」と頬を赤くしたことがある。篤は、言葉を詰まらせて「いえ……」と首を振り、菖をお家まで送ろうと決めた。塔野に「出てくる」とだけ伝えて、こっそり菖を追いかけて隣を歩いた。
菖は、少し困った顔をして一言も口を開かずにゆっくりと歩いてお家に帰っていった。
引き戸がぴたりと閉まるまでの瞬間を篤は克明に記憶していた。あれが女と二人連れ立って歩く初めての事だったので、篤は自分が自分ではなくなったような不思議な思いで女学校に戻っていった。
次の日から、菖はあまり自分の顔をみて話してくれなくなり、それから間もなくして菖が女学校にいらっしゃらなくなったのだ。
まだ教えたいことが山のようにあったのに…………篤は、悲しみと怒りが入り混じる自分の気持ちを抑えて、仕事が終わると「散歩をする」と嘘をこさえて宛もなく菖を探して歩いた。お家は壊されていたし、開いたままの扉から中を覗いてみても誰もいないことは一目瞭然。
そこから近い場所を探し、時には人に訊ねてみたが、何もわからなかったのだ。
偶然通った街道沿いの原っぱで菖を見つけることができた時などは、篤は仏だけでなくあらゆる神々にお一方ずつ頭を下げてお供えをしてまわりたいと思えるほど感謝したくらいだ。
「篤さま……」
菖の少し舌っ足らずの、篤さま、と呼ぶ声がたまらなく愛しい。
力の限り抱きしめて、もう一つに溶けてしまいたい。
「篤様!?」
篤はずきんと痛む左手を使ってしまい、お医者さまの言いつけを破ってしまったと悔いた。
目の前には顔を赤らめ自分を見つめる茉寧がいて「これは、すまない」とその肩を乱暴に押し返した。
寝ぼけていたとはいえ、菖以外を抱きしめてしまったことを後悔しながら篤は起き上がる。
「茉寧、茹でたこのように顔が赤いです」
「ゆ、ゆ、茹でたこではござりませんっ!!」
茉寧はさらに顔を赤くさせて、上級貴族の気取った口調で「篤様は、意地悪にございますね! 女子を前にたこと申すはお情けがないでしょうか」と口を尖らせる。
茉寧の服装は袴姿に足首まである靴をはいていて布の袋に書物をいれているようだ。女学校の帰りだろう。
「篤様がならず者と喧嘩なさり、ご実家で養生されていると聞き茉寧は見舞いに参りました。まず、こちらは塔野様方より見舞いの品です」
「ありがとうございます。なんでしょうか?」
茉寧の取り出した包みを開くと、中身はパンだ。珍しいものをよくも彼奴は手に入れてきたな、と篤は感心しつつ、その一つを包み直し茉寧に渡すと「駄賃です」と言った。
「ですからして、茉寧を童子扱いなさらないでくださいませ!」
篤は「童子でしょう」と冷たく言って、ごろんと横になり「用が済んだのならお帰りください。ごきげんよう」と背を向けた。
茉寧の大きな瞳にじんわりと涙が浮かぶ。
どうして篤様は、茉寧をしかりと見据えてはくださらないの? という思いが溢れてきたのだ。
幼少の頃より兄のように慕い、河原で転んだ時は自分をおぶってくれた優しい篤。
茉寧はずっとこの方と将来を添い遂げるのですよ、と聞かされて育った。
篤様のような方のお嫁様になれるなんて茉寧は幸せ者でございましょう、と心に宿し、いつ何時も篤様の為、篤様の為と頑張ってきたのだ。
「篤様は、酷い男にございます…………」
先ほど、篤の母親から茉寧に対してこっそり耳打ちがあった。
「縁談はお受けにならない方がいいのです」と、その方が茉寧の身に傷がつかずに済むそうだが、茉寧は篤様との縁談話ならば一刻もおかずにすぐにお返事しようと考えていたので、その衝撃ははかりしれない。
ならば…………と茉寧はある決断をいたした。
意を決した茉寧は、素早く袴の紐をといて、帯締めの紐もといて、背を向けた篤にくっついた。
「な、何をなさっておられるか! 正気ですか?」
さすがの篤も慌てたが、その篤にのしかかり茉寧は妖美な笑みを浮かべて「茉寧は夫婦がなにをなさるか知っています」と言い、篤の唇に吸い付いた。
篤はたまらずに「うっ」と喉を鳴らし、怪我の痛みに耐えかねて情けない声をあげた。
「ごめんくださいませ」
「ごめんでは済みません……これはよくない」
篤は茉寧の両肩をおさえつけ、息も絶え絶えに説得する。
当の茉寧はそんな事は耳に入らず、間近にある傷ついた篤のお顔と自分にはない喉仏が上下する様に目を奪われて、篤様は実にお美しい……などと考えて、もう一度唇に吸い付いてきた。
「しかし、このお顔では色男が台無しだ。お仕事を休まれるようなら診断書をおつかいいたします」
篤は布団の上で両手をついて「先生、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。
「それと……」
「わかっております。篤さまは通行人の喧嘩をお止めになられたということで、兄上さまから伺っておるしだいです」
「ありがとうございます」
お医者さまは診断のための道具を木箱に丁寧にしまってゆきながら、皺のよった顎を撫でた。
「しかし、町では喧嘩がおこったなど噂すらされておりませんぞ」
篤は「そうでございましょうね。あちら側は内密な喧嘩ですから」と冗談をほのめかし笑顔をつくったつもりだが、口の端が切れているので「いたた」と顔をしかめた。
「このようになさるなら、篤さまはわしが息子に欲しかった」
お医者さまはため息まじりにそうぼやいた。
「頭がよく優秀な子ならば、人の痛みもわかろうて立派な医者になれただろうに」
「なにを、もったいないです」
木箱をがたんと鳴らして「よいせ」と立ち上がり「この絨毯というものは草履がひっかかり年寄りには歩き辛いですわい」と文句を残して部屋を出た。
母との約束があるので、篤は布団にごろんと横になり、天井からぶら下がる硝子のランプを眺めながら暇を持て余す。
そうしているうちに菖に会いたくてたまらなくなり、お庭の窓へとふらふらと歩いてゆくとかぶき者のような奴が此方をじろりと睨みつけた。
篤は「この体ではあなたの喧嘩相手はできません。命は惜しいので」と呟き、またごろんと布団に横になった。
女中が運んできてくれる膳にのせた昼飯は味を薄くしたもので、怪我をした篤の傷が痛まぬように柔らかく煮てあるうどんと野菜だ。
女中が茶などを用意していると母がやってきてなんの迷いもなく箸を持ち、篤の口にうどんを運ぶので「自分で食べられます」と言うと「まあ、つまらないこと」とおっしゃり、けれどもその場をはなれず篤が食べ終わるまでじっと眺めていたりした。
昼飯を食べてしまうと眠気がやってきた。うつらうつらとしながら、篤の中には女学校時代の菖がいた。
菖は、特別に秀でた子でもなければ周囲を驚かすような明瞭活発な子女ではなかった。どちらかと言えば、ひっそりと大人しく吠えることもなければ鳴くこともない、まさにうさぎだった。
けれども、学習には意欲的で大人しいながらにも辿々しくいつも真剣に取り組んでいたので、篤は飲み込みの遅い菖を居残りさせて教えることもあったのだ。
ある日、居残り勉強に熱をいれてしまい帰りが遅くなったことがある。
「帰りが遅くなればお家の方が心配なさるでしょう」と篤が言うと菖は「せんせいは、お優しい方でございます。出来の悪い菖の面倒をみて、お家の心配までしてくださるのですね」と頬を赤くしたことがある。篤は、言葉を詰まらせて「いえ……」と首を振り、菖をお家まで送ろうと決めた。塔野に「出てくる」とだけ伝えて、こっそり菖を追いかけて隣を歩いた。
菖は、少し困った顔をして一言も口を開かずにゆっくりと歩いてお家に帰っていった。
引き戸がぴたりと閉まるまでの瞬間を篤は克明に記憶していた。あれが女と二人連れ立って歩く初めての事だったので、篤は自分が自分ではなくなったような不思議な思いで女学校に戻っていった。
次の日から、菖はあまり自分の顔をみて話してくれなくなり、それから間もなくして菖が女学校にいらっしゃらなくなったのだ。
まだ教えたいことが山のようにあったのに…………篤は、悲しみと怒りが入り混じる自分の気持ちを抑えて、仕事が終わると「散歩をする」と嘘をこさえて宛もなく菖を探して歩いた。お家は壊されていたし、開いたままの扉から中を覗いてみても誰もいないことは一目瞭然。
そこから近い場所を探し、時には人に訊ねてみたが、何もわからなかったのだ。
偶然通った街道沿いの原っぱで菖を見つけることができた時などは、篤は仏だけでなくあらゆる神々にお一方ずつ頭を下げてお供えをしてまわりたいと思えるほど感謝したくらいだ。
「篤さま……」
菖の少し舌っ足らずの、篤さま、と呼ぶ声がたまらなく愛しい。
力の限り抱きしめて、もう一つに溶けてしまいたい。
「篤様!?」
篤はずきんと痛む左手を使ってしまい、お医者さまの言いつけを破ってしまったと悔いた。
目の前には顔を赤らめ自分を見つめる茉寧がいて「これは、すまない」とその肩を乱暴に押し返した。
寝ぼけていたとはいえ、菖以外を抱きしめてしまったことを後悔しながら篤は起き上がる。
「茉寧、茹でたこのように顔が赤いです」
「ゆ、ゆ、茹でたこではござりませんっ!!」
茉寧はさらに顔を赤くさせて、上級貴族の気取った口調で「篤様は、意地悪にございますね! 女子を前にたこと申すはお情けがないでしょうか」と口を尖らせる。
茉寧の服装は袴姿に足首まである靴をはいていて布の袋に書物をいれているようだ。女学校の帰りだろう。
「篤様がならず者と喧嘩なさり、ご実家で養生されていると聞き茉寧は見舞いに参りました。まず、こちらは塔野様方より見舞いの品です」
「ありがとうございます。なんでしょうか?」
茉寧の取り出した包みを開くと、中身はパンだ。珍しいものをよくも彼奴は手に入れてきたな、と篤は感心しつつ、その一つを包み直し茉寧に渡すと「駄賃です」と言った。
「ですからして、茉寧を童子扱いなさらないでくださいませ!」
篤は「童子でしょう」と冷たく言って、ごろんと横になり「用が済んだのならお帰りください。ごきげんよう」と背を向けた。
茉寧の大きな瞳にじんわりと涙が浮かぶ。
どうして篤様は、茉寧をしかりと見据えてはくださらないの? という思いが溢れてきたのだ。
幼少の頃より兄のように慕い、河原で転んだ時は自分をおぶってくれた優しい篤。
茉寧はずっとこの方と将来を添い遂げるのですよ、と聞かされて育った。
篤様のような方のお嫁様になれるなんて茉寧は幸せ者でございましょう、と心に宿し、いつ何時も篤様の為、篤様の為と頑張ってきたのだ。
「篤様は、酷い男にございます…………」
先ほど、篤の母親から茉寧に対してこっそり耳打ちがあった。
「縁談はお受けにならない方がいいのです」と、その方が茉寧の身に傷がつかずに済むそうだが、茉寧は篤様との縁談話ならば一刻もおかずにすぐにお返事しようと考えていたので、その衝撃ははかりしれない。
ならば…………と茉寧はある決断をいたした。
意を決した茉寧は、素早く袴の紐をといて、帯締めの紐もといて、背を向けた篤にくっついた。
「な、何をなさっておられるか! 正気ですか?」
さすがの篤も慌てたが、その篤にのしかかり茉寧は妖美な笑みを浮かべて「茉寧は夫婦がなにをなさるか知っています」と言い、篤の唇に吸い付いた。
篤はたまらずに「うっ」と喉を鳴らし、怪我の痛みに耐えかねて情けない声をあげた。
「ごめんくださいませ」
「ごめんでは済みません……これはよくない」
篤は茉寧の両肩をおさえつけ、息も絶え絶えに説得する。
当の茉寧はそんな事は耳に入らず、間近にある傷ついた篤のお顔と自分にはない喉仏が上下する様に目を奪われて、篤様は実にお美しい……などと考えて、もう一度唇に吸い付いてきた。