およしなさいよ、うさぎさん。
重永家では当主である者の意見は絶対だ。反対や反抗など、絶対に許されぬ。それをした者には酷い罰が与えられる。
篤はじんじんと痛む体を押さえて床から起き上がろうと手をついたが、左手の甲に刺すような痛みを感じて、またうずくまって「くっ……」と歯を食いしばった。
縁談に否と返事した息子を、父は日が傾くまで殴り続けた。
「茉寧は、おまえに惚れているのだぞ。よそさまの女子(おなご)を惚れさせて断る奴があるか!」
「それは、茉寧は男といえば私しか知らないからでしょう。他に遊び相手がおりませんでした」
「責任逃れをするのか! なんて卑怯な奴だ」
「そうです私は卑怯者でございましょう。ならば、その縁談断るが茉寧の為となります」
篤が何度も否と返事をするので、最後はお庭の楠木に縛り付けて竹刀で殴った。篤の兄も混ざり「父上への恩を仇で返すのか!」と、ごもっともらしい事を仰りながら代わる代わるに篤を殴った。
兄は、父と同じ貴族院の議員というご職業についておられ既婚だ。お庭の見える縁側では、兄の嫁さまが口元をお高い着物で隠しながら「まあ」とか「へえ」とか仰いながら、眉をしかめて篤を見ていた。
兄が「おまえは、負け犬だ。篤治郎」と仰った。
貴族の家系にうまれて、負け犬が尻尾を丸めたように家を出て呑気に女学校の教師をしている弟にはいつも腹がたっていたと仰るので篤は「負け犬は兄さまのほうです」と返事をすると兄さまは手加減なしに篤の腹に皮のお靴をめり込ませた。
兄は、父の言いつけ通りにしか動けず、貴族院で親の七光りとうたわれてふんぞり返ってしか生きられぬ、哀れで下等な生き物だ。それに縁側にいるのはたいそう高級な衣装を着せられご実家の名札をつけなければなんの価値もない女。それを嫁にもらい、何が幸せなのか篤には皆目見当がつかない。
それに比べて、菖の美しさは外見だけでなく心の中までが真っ白で穢れもない……兄さまに見せたらさぞや驚き、その晩から嫁さまに袋を被せなくてはいたせませぬぞ、と思い、篤は兄に勝利した気でいた。
長く続いた暴行。それでも篤が頷かぬので父は怒り、誰もいない第一邸宅に閉じ込めて鍵をかけてしまったのだ。
浅い呼吸を繰り返しながら「あやめ……」と美しく愛しい名を呼ぶと、ついに弱気になり涙が浮かんだ。泣くと血液がまわり、殴られた傷が熱くなりずきずきと痛むことは幼いうちに思い知っていたのだが、成人しても涙は我慢できない。
篤は、朦朧とする頭で幼い頃の記憶を思い出していた。
篤の母も、兄の嫁さまと同じくご実家の名札をつけなければこのお家に嫁ぐことなどなかったお人なのだ。
父は母のご実家には今でも気を使っておられる。それなので、年に幾度となく母をご実家にお里宿りをさせるのだ。
母のお里では、重永氏は器の大きな男だ、とすこぶる評判がよろしいようだが、母をお里宿りさせた夜は必ずといっていいほど、この第一邸宅に煌々と明かりがともり人が集まってくる。
篤は、幼さ心から父が何をしているのか気になり、お庭の窓からひょっこりと中を覗いたことがある。
絨毯の洋間には見たことのないきれいな女が沢山いて、酒をついだり三味線をひきながら楽しそうにしていた。
しかし、その真ん中ではお椅子に座る裸の父に裸の女が跨がっていたのだ。幼い篤は「女が父さまをいじめておられる、これは大変なことがおこった」と考えたが、次の瞬間に女を弾き飛ばした父は、三味線をひいてた女の着物を無理矢理剥ぎ取り、細い足を高くあげて小便をするものを女の股に沈めた。
「おゆるしください! 重永さまぁ」という女の悲鳴を聞いて、篤は父が女をいじめているのだと知った。
次の母のお里宿りの夜には、父は寝室に女中を連れ込み顔を殴ったあとに三味線女と同じことをいたした。
殴られた女中はわあわあと泣きながら「嫁にいけなくなります」と顔を覆っていた。その女中はヤスと呼ばれ次男の篤にもお優しく、内緒で砂糖菓子などをくれるので篤は「父さま! お優しいヤスが泣いておられますぞ!」と勇ましく襖を開いたもので、結果は今と同じ様なことがおこった。
篤は額に手を置いて、自分の弱さを祟った。自分は何も守れない男なのではないかと怖くなった。
外鍵のかかった戸がかたんと鳴り、母の着物の裾がゆっくりと歩いていらっしゃった。篤は首をまわし霞む視界で見上げた。
「傷の手当てをさせてくださいませ」
「しかし、この事が父上に知られたら……」
母は「ふふふ」と笑い「少々強い酒を与えました」と空恐ろしい事を仰り、濡れた手ぬぐいで篤の顔を撫でた。
女中たちもやってきて、多江は左手を冷たい水で冷やす。その目が赤く腫れていて、涙を拭いながら一生懸命に腫れを冷やしていた。
「篤、理由を話しなさい」
手当てを終えた女中たちを部屋から出すと、母は洋間に正座をして姿勢を真っ直ぐにした。
篤は布団に寝かされてしまっていたので、そのまま気分だけは真っ直ぐにして「心に決めた女がおられるからです」と素直に答えた。
母は「やはり」と頷き、そして嬉しそうに微笑む。
「どの様な娘なのですか? 私の息子を射止めたのは」
「菖という心が優しく、うさぎのような女にございます」
「ほう、うさぎ……それまた想像ができません」
「いつかお会いになられてください」
母は「是非」と楽しそうに手を叩いた。
「お叱りにならないのですか?」
「なりません。私はあなたがとても羨ましいのです。それほどまでに深く結びついた方がいらして、これほどまでに逞しくなられたのですから……篤、今は辛くとも辛抱なさい。明日の朝にお医者さまを呼びます。傷の癒えるまでは此処から出ることは母が赦しません。なので、日の出の刻から多江をその娘さまの所へ遣わせます。それでよろしいですね?」
篤は、自分にたった一人でも家族がいて良かったと心の底から思えた。
「よろしいです。母上……」
母の手は、家を出た時よりも小さくなられてしまったように感じた。しかし、その暖かさはかわらず篤は瞳を閉じると、ありがとうございます、と心からの礼を述べた。