およしなさいよ、うさぎさん。
◇
菖は、眠い目をこすりながら目の前の冷めた牛鍋を見つめながら「ふあ」と欠伸をしてしまう。
そのうち眠気におそわれて、こくりこくりとやってしまうと、ハツに「菖様」と肩を支えられて、布団に入るようにと促される。
「しかし、篤さまは今夜戻りますとおっしゃりました。菖は、篤さまのお帰りを待ちたいのです。ハツさんはお先に床についてくださいませ」
菖は、手をついて「おやすみなさいませ」と頭を下げるので、いよいよハツも退き「ご無理はなさらさいでください」と頭を下げた。
気がついた時には日の出の刻を迎えており、板の縁側から、畳の部屋へと日の光がゆっくりと差し込んでいて、ちゃぶ台に伏せて眠っていた菖は、手足の痺れをかんじて「うーん」と伸びをした。
「篤さまがお帰りにならなかったのですね……」
きっと、ご実家で引き止められたのでしょう。篤さまのお家は聞くところによるとご立派な貴族院のご家系ですし……と考えながら、菖は平静を装うと一人きりの部屋で首をくるくる回したりしてみた。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……篤さまは必ずお帰りになられる。
菖はハツの真似をして帯をぱんと叩いから、冷えた鍋を運ぶことにした。砂糖の分量を間違えて甘くなりすぎた牛鍋だけれど菖がはじめて作ったお食事はどうやら無駄になってしまったようだ。調理場で鍋を置いて、お庭に出ると馬車の音がしていらしたので「篤さまでございます」と嬉しそうに御髪をなおしながら門を開き、松の木の影から馬車を見つめた。
馬車から降りてきたのは多江一人で、菖は「おかえりなさいませ、多江さん」と頭を下げてすぐに「篤さまは?」と問うてみたのだが、多江は「ただいま戻りました。菖様、中でお話しいたしましょう」とおっしゃるので、不安で押しつぶされそうな胸に手を添えて「はい」と震えながら答えた。
多江は篤の母親から「怪我の様態をあまり恐ろしく伝えてはいけません。篤はたいした大怪我をしているわけではないですし、あれは体が丈夫です。若い娘様には気の毒ですから」と強く言いつけられていたので、なるだけ優しい声で「手を少し怪我をなさり、奥方様がご心配いたしまして……」と馬車の中で考え用意していた言葉を諳んじた。
しかし、菖の表情は暗くなる一方だ。
菖は多江の目の縁が赤いことに気がついてしまったのだ。どのようにしたら目の縁が赤くなるのかをよくよく思い起こしてみれば、それは泣いた次の日なのだ。
菖もよく篤に泣かされてしまうので、思い当たる節がある。しかし、菖の場合は篤が「泣かせてしまいました」と反省したように井戸の水で目元を冷やしてくださるので、それほど腫れたことはないのだが、多江の目はとても腫れている。自分と同じように泣かされたものではなく、もっと深い悲しみの涙のように感じた。
多江が泣くことなど一度も見たことがない菖は、嫌な予感がしたのだ。
「菖様、わたくしは篤様のお着替えをご用意させていただき、すぐに戻らねばなりません。お手伝いいただけますか?」
「はい」と菖は頷き、二人は縁側から部屋にあがろうとした。
「多江よ」
しかし、門が開き篤の父が姿を現したことにより動きを止めた。
「馬車が動いたので後をつけてみた。その小娘は見たことのない面構えをしている。お見受けしたところ、新しい女中ではないようだが」
多江は、しまった、と思う。
重永家の女中には縦縞柄の着物を身につけると決まりがあるのだが、運が悪いことに菖は篤が誂えた花小紋のお着物を身につけていた。
篤の父親の後ろには重永に仕える忠実な下部のような付き人を三人も連れていた。
「……い、いらっしゃいませ。旦那様、まさかこちらにいらっしゃるとは思いもよりませぬもので、ご無礼をお許しください。
この者は、うちでお預かりしている娘にございます。日がきたらじきに親元に連れて帰りますゆえ」
多江がとっさに機転をきかせたのだが、父は納得した様子はない。
「お可愛い女子(おなご)ではないか、この家の預かり子ならば、わしの預かり子も同然だ。茶でも煎れてもらいたいものだ」
菖の手に多江の手が触れた。菖はわけもわからず、汗ばんだ手にぎゅうと握られうろたえていたが多江が素早く手を引き「ただいま、ご用意させていただきます」と調理場へと連れ込んだ。
「菖様、あの方は篤様の父上様にございます」
菖は「まあ、あの方が御父さま」と木戸の影から父を眺めた。
なんだか、あまり篤には似ていないので菖は首を傾げた。
篤の父の恐ろしさを知らない菖は、あまりに無邪気だった。
「実は……篤様は、まだ菖様の存在を旦那様に申し上げることができていません」
菖は「はい」と頷く。
「機会がなかっただけですが……旦那様はなかなか気の難しい方でございますゆえ……」
篤の父の悪い癖を知っている多江は逃げ出したい気持ちになった。何かよからぬことが起こりそうで恐ろしくなる。
鍋に水をいれて火をおこし、何か策はないかと知恵を振り絞る。来客に気がつき相手があの旦那様と知った瞬間に、ハツとユウまでもが調理場に逃げ込んできて、二人は菖が前にいるにも関わらず完全に震えていた。
「茶は、菖がお持ちいたします」
そのような状態の三人を前に菖は客人用の湯呑みを取り出し、お盆に並べた。
「しかし、菖様」
「菖は平気です。預かり子の振る舞いをすればよろしいのでございましょう。篤様に恥じぬよう、然りとやって参ります」
菖はなんとなく理解してしまったのだ。預かり子と紹介されてしまえば、次がないことも。
多江は、泣き出しそうな気持ちを飲み込み女中長として菖に付き添う。
「お待たせいたしました」
菖のお作法には無駄がなかった。まず菓子を左側に置き、音もたてずに茶托に湯呑みののせて柄を確認してから着物の袖を押さえて茶をゆっくりと置いた。
そして、一歩退き「お召し上がりくださいませ、旦那様」と深く頭を下げたのだ。
これには多江も感心してしまい、篤の父も「うむ」と頷き茶をすすり「うまい」と頷いた。
菖がほっとした表情を浮かべると、篤の父は「名は何と申すか」と威厳のある低い声を出した。
「菖(あやめ)にございます。旦那様」
「良い名だ。名付けは父か、母か?」
「父にございます。菖が産まれた日に河原で菖の花がたくさん咲いておりましたそうで、飛んでお家に帰り、半紙に菖と書き命名してくださったそうです」
「うむ、素晴らしい。では、菖に聞くがおまえは篤の何なのだ?」
父の厳しい目つきに、菖は一瞬身をかたくさせた。
多江が「ですから……」と言おうとしたが、付き人に制されてしまう。
「菖は…………預かり子にございます。もうすぐお家に……菖と名付けてくださった父さまの元に帰ります」
「そうか、ならば出来るだけ早くそうして欲しいのだ。篤には縁談の話があり、家に若い女がいるのは非常によろしくない」
「えん……だん…………にございますか」
篤には、別の方がいらっしゃるのだと知ってしまった途端に菖は預かり子としての役をこなすことが難しくなってしまわれた。
目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れてしまい「嬉し涙にございます……」とか細い声をだしてみたが、そのお顔は悲しみで溢れていた。
「篤に優しくされたか? あれは、産まれながらに女にはよく好かれたのだ。だが、重永の嫡男としての役割は果たしてもらわねばならん」
太い指が菖の陶器のような白い頬に触れた。菖はびっくりして、顔をあげる。
「お可愛い子だ。もし心配があるなら、本邸でわしが大事に預かろう。娘にしてやってもいい。どうだ?」
聞いたこともない甘い声をだした旦那様に身震いがして多江は立ち上がろうとしたが、付き人は肩を押さえつけた。
菖は、眠い目をこすりながら目の前の冷めた牛鍋を見つめながら「ふあ」と欠伸をしてしまう。
そのうち眠気におそわれて、こくりこくりとやってしまうと、ハツに「菖様」と肩を支えられて、布団に入るようにと促される。
「しかし、篤さまは今夜戻りますとおっしゃりました。菖は、篤さまのお帰りを待ちたいのです。ハツさんはお先に床についてくださいませ」
菖は、手をついて「おやすみなさいませ」と頭を下げるので、いよいよハツも退き「ご無理はなさらさいでください」と頭を下げた。
気がついた時には日の出の刻を迎えており、板の縁側から、畳の部屋へと日の光がゆっくりと差し込んでいて、ちゃぶ台に伏せて眠っていた菖は、手足の痺れをかんじて「うーん」と伸びをした。
「篤さまがお帰りにならなかったのですね……」
きっと、ご実家で引き止められたのでしょう。篤さまのお家は聞くところによるとご立派な貴族院のご家系ですし……と考えながら、菖は平静を装うと一人きりの部屋で首をくるくる回したりしてみた。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……篤さまは必ずお帰りになられる。
菖はハツの真似をして帯をぱんと叩いから、冷えた鍋を運ぶことにした。砂糖の分量を間違えて甘くなりすぎた牛鍋だけれど菖がはじめて作ったお食事はどうやら無駄になってしまったようだ。調理場で鍋を置いて、お庭に出ると馬車の音がしていらしたので「篤さまでございます」と嬉しそうに御髪をなおしながら門を開き、松の木の影から馬車を見つめた。
馬車から降りてきたのは多江一人で、菖は「おかえりなさいませ、多江さん」と頭を下げてすぐに「篤さまは?」と問うてみたのだが、多江は「ただいま戻りました。菖様、中でお話しいたしましょう」とおっしゃるので、不安で押しつぶされそうな胸に手を添えて「はい」と震えながら答えた。
多江は篤の母親から「怪我の様態をあまり恐ろしく伝えてはいけません。篤はたいした大怪我をしているわけではないですし、あれは体が丈夫です。若い娘様には気の毒ですから」と強く言いつけられていたので、なるだけ優しい声で「手を少し怪我をなさり、奥方様がご心配いたしまして……」と馬車の中で考え用意していた言葉を諳んじた。
しかし、菖の表情は暗くなる一方だ。
菖は多江の目の縁が赤いことに気がついてしまったのだ。どのようにしたら目の縁が赤くなるのかをよくよく思い起こしてみれば、それは泣いた次の日なのだ。
菖もよく篤に泣かされてしまうので、思い当たる節がある。しかし、菖の場合は篤が「泣かせてしまいました」と反省したように井戸の水で目元を冷やしてくださるので、それほど腫れたことはないのだが、多江の目はとても腫れている。自分と同じように泣かされたものではなく、もっと深い悲しみの涙のように感じた。
多江が泣くことなど一度も見たことがない菖は、嫌な予感がしたのだ。
「菖様、わたくしは篤様のお着替えをご用意させていただき、すぐに戻らねばなりません。お手伝いいただけますか?」
「はい」と菖は頷き、二人は縁側から部屋にあがろうとした。
「多江よ」
しかし、門が開き篤の父が姿を現したことにより動きを止めた。
「馬車が動いたので後をつけてみた。その小娘は見たことのない面構えをしている。お見受けしたところ、新しい女中ではないようだが」
多江は、しまった、と思う。
重永家の女中には縦縞柄の着物を身につけると決まりがあるのだが、運が悪いことに菖は篤が誂えた花小紋のお着物を身につけていた。
篤の父親の後ろには重永に仕える忠実な下部のような付き人を三人も連れていた。
「……い、いらっしゃいませ。旦那様、まさかこちらにいらっしゃるとは思いもよりませぬもので、ご無礼をお許しください。
この者は、うちでお預かりしている娘にございます。日がきたらじきに親元に連れて帰りますゆえ」
多江がとっさに機転をきかせたのだが、父は納得した様子はない。
「お可愛い女子(おなご)ではないか、この家の預かり子ならば、わしの預かり子も同然だ。茶でも煎れてもらいたいものだ」
菖の手に多江の手が触れた。菖はわけもわからず、汗ばんだ手にぎゅうと握られうろたえていたが多江が素早く手を引き「ただいま、ご用意させていただきます」と調理場へと連れ込んだ。
「菖様、あの方は篤様の父上様にございます」
菖は「まあ、あの方が御父さま」と木戸の影から父を眺めた。
なんだか、あまり篤には似ていないので菖は首を傾げた。
篤の父の恐ろしさを知らない菖は、あまりに無邪気だった。
「実は……篤様は、まだ菖様の存在を旦那様に申し上げることができていません」
菖は「はい」と頷く。
「機会がなかっただけですが……旦那様はなかなか気の難しい方でございますゆえ……」
篤の父の悪い癖を知っている多江は逃げ出したい気持ちになった。何かよからぬことが起こりそうで恐ろしくなる。
鍋に水をいれて火をおこし、何か策はないかと知恵を振り絞る。来客に気がつき相手があの旦那様と知った瞬間に、ハツとユウまでもが調理場に逃げ込んできて、二人は菖が前にいるにも関わらず完全に震えていた。
「茶は、菖がお持ちいたします」
そのような状態の三人を前に菖は客人用の湯呑みを取り出し、お盆に並べた。
「しかし、菖様」
「菖は平気です。預かり子の振る舞いをすればよろしいのでございましょう。篤様に恥じぬよう、然りとやって参ります」
菖はなんとなく理解してしまったのだ。預かり子と紹介されてしまえば、次がないことも。
多江は、泣き出しそうな気持ちを飲み込み女中長として菖に付き添う。
「お待たせいたしました」
菖のお作法には無駄がなかった。まず菓子を左側に置き、音もたてずに茶托に湯呑みののせて柄を確認してから着物の袖を押さえて茶をゆっくりと置いた。
そして、一歩退き「お召し上がりくださいませ、旦那様」と深く頭を下げたのだ。
これには多江も感心してしまい、篤の父も「うむ」と頷き茶をすすり「うまい」と頷いた。
菖がほっとした表情を浮かべると、篤の父は「名は何と申すか」と威厳のある低い声を出した。
「菖(あやめ)にございます。旦那様」
「良い名だ。名付けは父か、母か?」
「父にございます。菖が産まれた日に河原で菖の花がたくさん咲いておりましたそうで、飛んでお家に帰り、半紙に菖と書き命名してくださったそうです」
「うむ、素晴らしい。では、菖に聞くがおまえは篤の何なのだ?」
父の厳しい目つきに、菖は一瞬身をかたくさせた。
多江が「ですから……」と言おうとしたが、付き人に制されてしまう。
「菖は…………預かり子にございます。もうすぐお家に……菖と名付けてくださった父さまの元に帰ります」
「そうか、ならば出来るだけ早くそうして欲しいのだ。篤には縁談の話があり、家に若い女がいるのは非常によろしくない」
「えん……だん…………にございますか」
篤には、別の方がいらっしゃるのだと知ってしまった途端に菖は預かり子としての役をこなすことが難しくなってしまわれた。
目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れてしまい「嬉し涙にございます……」とか細い声をだしてみたが、そのお顔は悲しみで溢れていた。
「篤に優しくされたか? あれは、産まれながらに女にはよく好かれたのだ。だが、重永の嫡男としての役割は果たしてもらわねばならん」
太い指が菖の陶器のような白い頬に触れた。菖はびっくりして、顔をあげる。
「お可愛い子だ。もし心配があるなら、本邸でわしが大事に預かろう。娘にしてやってもいい。どうだ?」
聞いたこともない甘い声をだした旦那様に身震いがして多江は立ち上がろうとしたが、付き人は肩を押さえつけた。