およしなさいよ、うさぎさん。
篤さまに縁談のお話しがある……その事だけに囚われて傷ついている菖は虚ろな眼差しで篤の父を見上げた。
濃い髭の中で口元がにやりと笑ったことにも気がつけずに、篤さまに縁談……と視線を落とした。
そうだ、預かり子の振りをしなくては。
「ありがとうございます……しかし、菖には父さまがおりますゆえ…………」
「河原の掘っ建て小屋で酒を飲んでる父親をまだ父と呼べるのかい?」
菖はびくんと体を揺らした。篤よりも太く毛深い手が菖の細い顎を掴んだ。顔の形がかわるほど強く掴まれ上を向かされたので、菖は声が出せない。
「家のことは調べさせてもらった。下手な芝居に付き合う暇はないのだ、観念しろ、全てお見通しだわ」
「…………っ」
無駄な芝居をしてしまった事で、篤さまの御父さまがお怒りになられた、と感じた菖は「ふう」と喉を鳴らした。
「も、申し訳ございません旦那様!」
「多江は、黙っていろ。菖、この細い体で篤を誘惑したか、わしにもやってみろ」
首を振るが、自分の頭すら自由に動かすことができずにただ息を詰まらせる。
「うん? 罪悪感から声も出せぬか哀れな娘だ。しかし、面倒をみてやるというのは嘘ではない。おまえを本邸に連れて行けば篤が何でも言うことをききそうだからな。あれは本当に手がかかる息子だ」
臭い息が顔にかかり菖は「っく」と呻き、自分を捕まえている手を解こうと爪をたてたが敵うはずもなく、体を畳に叩きつけられ頭が振れて目眩がしてしまう。
「菖様!」
多江は付き人の手をはねのけ菖に駆け寄ると、旦那様を鋭く睨みつけた。
「この方にはお手を触れぬよう、お願いいたします」
自分の使命があるならば、それは今この瞬間なのだ、と多江は感じた。
誰にも打ち明けることはない篤への想いを散らせるならば、それは今この瞬間に篤の大事な大事な想い人を身を持って守り抜くことなのではないか。
「誰にものを言うか」
菖の肩を抱いて頭を撫でていた多江の腕は掴まれ、折れてしまうほどに捻られる。
「旦那様、お願いです。この事はどうか目をつぶってやり過ごしてくださいませ」
本邸に連れて行かれたら、間違いなく菖は旦那様にまで手込めにされてしまう。ここは怒りの矛先を自分に向けて、篤の回復を待つがよいと判断しその痛みに耐えた。
多江の目論見通りに怒りの矛先がかわった。
「だいたい元はと言えば、おまえも悪い!」
畳に投げ捨てられた際に、着物の裾から多江の長い足がさらされて倒れた。
菖には、篤の御父さまが魔物にしか見えなくなっていた。
怒鳴って乱暴ばかりする、心に酷く醜く恐ろしい魔物が住み着いておられるのだ。
突然に多江にのしかかり、魔物は多江の着物を捲り上げた。 菖に手をつけるのは本邸に戻ってからもできるが、この女を屈服させるは今しかないという計算だけはやかったのだ。
「おまえが篤の見張り役だろうに、どうして篤をうまく操ることができないのだ。菖、見ておれ、当主に逆らうとどういう目に遭うのかを」
頬が裂けてしまうほどの痛みを感じて多江は悲鳴もあげられなくなった。付き人たちは、その成り行きを見守るだけがお役目なのだ。感情の失われてしまった目を見て、菖は、酒を飲む父さまと遊郭の母さまみたいだと思った。
大人は皆、本当に諦めてしまったときなどはこうなってしまう生き物なのかもしれない。けれども、きっと篤さまは違う……と菖は立ち上がり、多江に乱暴をしている魔物の背にそっと触れた。
「お沈めくださいませ…………」
多江は、自分の決断を無駄にするなとばかりに菖に「逃げなさい!」と叫んだ。しかし、体は震えていて、いつになく迫力のない叱り方だった。
「お優しい篤さまの御父さま、多江さんは篤さまの大切な方にございます。朝の仕度は多江さんがいないと進みませぬし、それに篤さまは多江さんの料理はお国で一番だとよく申しておりました」
菖の優しい語りかけに、魔物は多江の股を弄ろうとしていた手を止めた。
「菖もそのように言われてみたくなりましたので、多江さんの真似をして牛鍋をつくりましたが、砂糖の量を間違えてしまいました」
ひどく甘い牛鍋は、誰も手をつけることなく調理場に置かれたままだ。
「篤さまの御父さま、菖は料理もできない不出来な子でございます。このような女が篤さまと一緒になれることなどあってはならないのです。御父さま、今から菖は消えていなくなります。菖が此処から去れば、篤さまは縁談をなされて幸せな家庭を築き、ご立派な御父さまへの恩返しができますのでしょう? それならば、菖もとても幸せにございます。どうか、お怒りを沈めて、乱暴をお止めくださいませんか」
菖のまっさらな気持ちがほんの少しでも理解できたのならば「いなくなるとは面白い」とは言わずに、自分の行為を恥じる気持ちが芽生えてくるはずなのだが魔物にはそれができなかった。
「よかろう、おまえがいなくなれば多江には手をつけず、篤が幸せになるよう精一杯の努力をする」
要は篤が父の言うことに頷けばいいのだ。篤はいつもいつも否という返事を父に投げつけてばかりいた。息子から全てを否と言われることに魔物は疲れていたのだ。
この小娘を逃がすのは惜しい気もするが、自分が話をつけていなくなったと知れば篤は父を恐れて何でも頷く兄のような立派な男に成長するかもしれない、と浅はかなことを考えて、多江を解放すると「走って去れ!」と菖に怒鳴りつけたのだ。
「走って去ります。多江さん、さようなら」
「……菖様っ!」
別れの時も与えてもらえず、草履も履かずに菖は走り出した。
お着物の裾を託しあげて、一生懸命走った。
門の松から走り去る娘の後ろ姿を指差し大笑いする魔物。その家来たちも笑えと命令されて「はーはーはー」という間抜けで乾いた笑い声が響いた。
「猟師に狙われたうさぎが草原を逃げて行くようだ。追いかけて鉄砲で撃ってしまいたくなるほどだ」
そのうさぎを追いかけてお守りしようとした多江だが、魔物に阻止され地面にうずくまって泣くことしかできなかった。
菖はもつれる足で必死に走り続ける。息があがり、はあはあ、と苦しくて喉がつかえて全身から嫌な汗が吹き出ているが、遠くへ行くことこそが篤への愛にかわると、足を止めようとはしなかった。
次第に体の限界が近づき、道の小石を踏みつけて「ああっ!」と倒れて膝を打ちつけた。旅の親切な方が「大丈夫ですか? お嬢さん」と菖を木の影に座らせてくれて、ほんの少しの水を分けてくれだ。
「ありがとうございます…………」と深く感謝して旅の人を見送ると、菖は膝を抱えて声を押し殺して泣いた。
悲しくて悲しくて…………どうして自分が本当のお嫁になれると夢などをみてしまったのだろう。篤さまの腕の中で、暖かい体温を感じながら、それが一生続けばいいなど、おかしな話だ。
本当に、おかしな話だ。
菖は、馬鹿げた自分を笑おうとしてみたが、それ以上に篤に会えなくなってしまった事の方が頭の大半をしめていてうまく笑うことができない。
「篤さま…………」
まぶたの裏側にいる篤は、背に月を浮かべて優しく笑っていた。
濃い髭の中で口元がにやりと笑ったことにも気がつけずに、篤さまに縁談……と視線を落とした。
そうだ、預かり子の振りをしなくては。
「ありがとうございます……しかし、菖には父さまがおりますゆえ…………」
「河原の掘っ建て小屋で酒を飲んでる父親をまだ父と呼べるのかい?」
菖はびくんと体を揺らした。篤よりも太く毛深い手が菖の細い顎を掴んだ。顔の形がかわるほど強く掴まれ上を向かされたので、菖は声が出せない。
「家のことは調べさせてもらった。下手な芝居に付き合う暇はないのだ、観念しろ、全てお見通しだわ」
「…………っ」
無駄な芝居をしてしまった事で、篤さまの御父さまがお怒りになられた、と感じた菖は「ふう」と喉を鳴らした。
「も、申し訳ございません旦那様!」
「多江は、黙っていろ。菖、この細い体で篤を誘惑したか、わしにもやってみろ」
首を振るが、自分の頭すら自由に動かすことができずにただ息を詰まらせる。
「うん? 罪悪感から声も出せぬか哀れな娘だ。しかし、面倒をみてやるというのは嘘ではない。おまえを本邸に連れて行けば篤が何でも言うことをききそうだからな。あれは本当に手がかかる息子だ」
臭い息が顔にかかり菖は「っく」と呻き、自分を捕まえている手を解こうと爪をたてたが敵うはずもなく、体を畳に叩きつけられ頭が振れて目眩がしてしまう。
「菖様!」
多江は付き人の手をはねのけ菖に駆け寄ると、旦那様を鋭く睨みつけた。
「この方にはお手を触れぬよう、お願いいたします」
自分の使命があるならば、それは今この瞬間なのだ、と多江は感じた。
誰にも打ち明けることはない篤への想いを散らせるならば、それは今この瞬間に篤の大事な大事な想い人を身を持って守り抜くことなのではないか。
「誰にものを言うか」
菖の肩を抱いて頭を撫でていた多江の腕は掴まれ、折れてしまうほどに捻られる。
「旦那様、お願いです。この事はどうか目をつぶってやり過ごしてくださいませ」
本邸に連れて行かれたら、間違いなく菖は旦那様にまで手込めにされてしまう。ここは怒りの矛先を自分に向けて、篤の回復を待つがよいと判断しその痛みに耐えた。
多江の目論見通りに怒りの矛先がかわった。
「だいたい元はと言えば、おまえも悪い!」
畳に投げ捨てられた際に、着物の裾から多江の長い足がさらされて倒れた。
菖には、篤の御父さまが魔物にしか見えなくなっていた。
怒鳴って乱暴ばかりする、心に酷く醜く恐ろしい魔物が住み着いておられるのだ。
突然に多江にのしかかり、魔物は多江の着物を捲り上げた。 菖に手をつけるのは本邸に戻ってからもできるが、この女を屈服させるは今しかないという計算だけはやかったのだ。
「おまえが篤の見張り役だろうに、どうして篤をうまく操ることができないのだ。菖、見ておれ、当主に逆らうとどういう目に遭うのかを」
頬が裂けてしまうほどの痛みを感じて多江は悲鳴もあげられなくなった。付き人たちは、その成り行きを見守るだけがお役目なのだ。感情の失われてしまった目を見て、菖は、酒を飲む父さまと遊郭の母さまみたいだと思った。
大人は皆、本当に諦めてしまったときなどはこうなってしまう生き物なのかもしれない。けれども、きっと篤さまは違う……と菖は立ち上がり、多江に乱暴をしている魔物の背にそっと触れた。
「お沈めくださいませ…………」
多江は、自分の決断を無駄にするなとばかりに菖に「逃げなさい!」と叫んだ。しかし、体は震えていて、いつになく迫力のない叱り方だった。
「お優しい篤さまの御父さま、多江さんは篤さまの大切な方にございます。朝の仕度は多江さんがいないと進みませぬし、それに篤さまは多江さんの料理はお国で一番だとよく申しておりました」
菖の優しい語りかけに、魔物は多江の股を弄ろうとしていた手を止めた。
「菖もそのように言われてみたくなりましたので、多江さんの真似をして牛鍋をつくりましたが、砂糖の量を間違えてしまいました」
ひどく甘い牛鍋は、誰も手をつけることなく調理場に置かれたままだ。
「篤さまの御父さま、菖は料理もできない不出来な子でございます。このような女が篤さまと一緒になれることなどあってはならないのです。御父さま、今から菖は消えていなくなります。菖が此処から去れば、篤さまは縁談をなされて幸せな家庭を築き、ご立派な御父さまへの恩返しができますのでしょう? それならば、菖もとても幸せにございます。どうか、お怒りを沈めて、乱暴をお止めくださいませんか」
菖のまっさらな気持ちがほんの少しでも理解できたのならば「いなくなるとは面白い」とは言わずに、自分の行為を恥じる気持ちが芽生えてくるはずなのだが魔物にはそれができなかった。
「よかろう、おまえがいなくなれば多江には手をつけず、篤が幸せになるよう精一杯の努力をする」
要は篤が父の言うことに頷けばいいのだ。篤はいつもいつも否という返事を父に投げつけてばかりいた。息子から全てを否と言われることに魔物は疲れていたのだ。
この小娘を逃がすのは惜しい気もするが、自分が話をつけていなくなったと知れば篤は父を恐れて何でも頷く兄のような立派な男に成長するかもしれない、と浅はかなことを考えて、多江を解放すると「走って去れ!」と菖に怒鳴りつけたのだ。
「走って去ります。多江さん、さようなら」
「……菖様っ!」
別れの時も与えてもらえず、草履も履かずに菖は走り出した。
お着物の裾を託しあげて、一生懸命走った。
門の松から走り去る娘の後ろ姿を指差し大笑いする魔物。その家来たちも笑えと命令されて「はーはーはー」という間抜けで乾いた笑い声が響いた。
「猟師に狙われたうさぎが草原を逃げて行くようだ。追いかけて鉄砲で撃ってしまいたくなるほどだ」
そのうさぎを追いかけてお守りしようとした多江だが、魔物に阻止され地面にうずくまって泣くことしかできなかった。
菖はもつれる足で必死に走り続ける。息があがり、はあはあ、と苦しくて喉がつかえて全身から嫌な汗が吹き出ているが、遠くへ行くことこそが篤への愛にかわると、足を止めようとはしなかった。
次第に体の限界が近づき、道の小石を踏みつけて「ああっ!」と倒れて膝を打ちつけた。旅の親切な方が「大丈夫ですか? お嬢さん」と菖を木の影に座らせてくれて、ほんの少しの水を分けてくれだ。
「ありがとうございます…………」と深く感謝して旅の人を見送ると、菖は膝を抱えて声を押し殺して泣いた。
悲しくて悲しくて…………どうして自分が本当のお嫁になれると夢などをみてしまったのだろう。篤さまの腕の中で、暖かい体温を感じながら、それが一生続けばいいなど、おかしな話だ。
本当に、おかしな話だ。
菖は、馬鹿げた自分を笑おうとしてみたが、それ以上に篤に会えなくなってしまった事の方が頭の大半をしめていてうまく笑うことができない。
「篤さま…………」
まぶたの裏側にいる篤は、背に月を浮かべて優しく笑っていた。