およしなさいよ、うさぎさん。
◇
塔野は、最近の篤の変わりようには頭を悩まされるばかりだった。
この世は天国とばかりに生き生きと幸せそうな日々を過ごしていたと思えば、怪我して幾日か休みをとった後は地獄を徘徊する亡者のようになってしまった。女教師の多い女学校では、そんな篤を気味悪がる者まで出て霊媒師にお祓いをさせたらいいのでは、などと囁かれていたので塔野は「いい気味だ」と笑っていた。
しかし、あまりに篤が塞ぎこんでいる期間が長いので、そのうちに心配になり、篤を酒や釣りなどにも誘ってみたが「忙しいです」と一刀両断されてしまう。
「ならば、俺の家に遊びに来い」と、帰りがけの腕を掴み、嫌がる篤を無理矢理自宅に連れて帰ってみた。
塔野家は祖父母に両親、兄弟七人の大所帯で鳥小屋のように賑やかだ。塔野も遊郭で女に嫌われてしまい塞ぎこんでしまいたくなることもあるが、この家に帰るとそんなことはどうでもいいように思えてくる。末の弟と妹が茶碗をひっくり返し喧嘩しているのを仲裁しながら「適当に座れ」と座布団を投げて寄越す。
篤が「おじゃまいたします」などと頭を下げても、誰も気がつきもせずに末弟が「兄ちゃんがげんこつした!」と泣き出した。
「噂によると、おまえの縁談相手はあの茉寧らしいではないか! しかもうまく話が進まずに水に流れたのであろう? だからといってそこまで落ち込むな。おまえらしくない」
騒がしい家で塔野にそう言われると、篤様をお慕いできぬなら川に飛び込みます、と茉寧が大騒ぎしたことなど、もうどうでもよくなってしまい「ええ、本当に……」と呟き茶渋がついた茶碗に注がれた酒に口をつけた。
「茉寧はたしかにとびきりの美人だが、少し気が強すぎるじゃじゃ馬だ。女はちょいとおとなしいくらいがおまえには似合っているよ」
篤は、また「ええ、本当に……」と繰り返した。
焼いた柳葉魚(ししゃも)を運んできた塔野の姉は篤を一目みて、急に魚を置いて奥の部屋にすっとんで行ったと思えば、顔に母の白粉(おしろい)を叩きつけて戻ってきた。
「おはつめかかります。姉のサヤにございます」と艶やかな声をだす姉は、冷たい目を向けた弟を小突き「この方の、お名前は?」と早口でおっしゃった。
「重永のとこの篤治郎です」
姉は「まあ! 御貴族様が何故このようなぼろ屋敷に!」と両手を頬に添えるとそのまま後ろにひっくり返ってしまったのだ。
塔野は「時代遅れな姉だ」と足蹴りして「おかしな家族だろ?」と篤の笑いを誘う。
篤の頬に赤みがさして「そうですね」と久々に白い歯をみせてくれたので「まあ、飲めや」と酒を足した。
酒の入った篤は、菖を見つけた日から遡り、腹を割って塔野に打ち明けた。
塔野は「うん、うん」と頷きながら、内心は冷や汗をかいていた。
自分の見当違いの心配よりも、もうかなりの大きさで篤の話は深刻だ。
塔野も親には殴れたりするが、木に縛り付けてまで痛めつける気持ちは匙一杯も理解できずに、段々と目の前の男が哀れになってきた。隣で聞き耳をたてていた姉と、その脇にはいつの間にか母親までいて「おかわいそうに」と着物の裾で涙や鼻汁をすすっていた。
「女はあちらへ行け」と母と姉を部屋から追い出すと、塔野はぴしゃりと襖をしめて、篤にずいっと近づき肩に腕をまわした。
「篤よ」
「なんだか気持ち悪い。私に近寄らないでください」
「俺も近づきたくはないのだが、家族には聞かれたくない話だ」
塔野には遊郭で可愛がっている蓉(よう)という遊女がいる。蓉とは年も近く色々なことを話せる相手なので、蓉も遊郭でのことをたまにこっそりと塔野に漏らしていた。
なんでも、遊郭に売られてきた女の中に伝説になる勢いで人気の遊女がいると篤に教えたのは塔野なのである。それが菖の姉ではないかと気がついたのは篤の方だが、篤は新しい情報に「ほう」と頷いた。
「見受けいたされたか」
「そうだ。店主もなかなか筋のよい女を手放すが惜しく相当ふっかけた金銭を要求したようだが、それをたやすく支払ったそうだ。男は、まだ若い海の商人だと聞いている。大きな船を何隻も持ち、何百と人を雇い西へ東へと航海をさせているそうな」
その遊女は見受けされる前に、これで家族も救えると蓉に話たようで、それだけの財力がある男を手に入れた姉ならば行方不明の菖も見つけ出すことができるのではないか…………と塔野は当てずっぽうに言ってみたのだが、篤の表情がかわった。
「塔野の夜遊びもあながち悪い事だけではないようだ」
「人が大事な情報流してやったんだ、有り難う、と一言もいえないか」
篤は「ありがとうございます」と床に頭をつけると、家を出た。
「おーい、篤よ。俺も協力してやるから、明日にしろ!」
篤は、塔野に手を振り暗い夜道に消えていった。
もう幾度となく菖を探しさ迷っていた。元屋敷の跡地に掘ったて小屋、母がいたという遊郭にその近辺をくまなく探していた。
菖は神隠しにあったかのように忽然と姿を消してしまったのだ。
第三邸宅からかなり遠く離れた茶屋の女主人が「あそこの木の下で泣いている娘を見たよ。あんたがいう時期と同じ頃にね」という情報が唯一の手がかりだった。着物の柄と体の特徴が菖と同じだったので間違いないと確信したが、女主人は「足は傷だらけだし、走ってきたので髪は乱れ、着物も破けていたから、狼に食われちまうから家に帰りなって言ってやったんだよ」と言うので、篤はその場で崩れてしまいそうなほど悲しくなってしまった。ここまでの距離をたった一人、あの細い体で素足で走ったのだ。心は酷く怯えていたのだろうに、と想像するだけで父を殺してしまいたいほど憎く呪いの言葉を述べながら篤は娘が向かったという方を探して歩いたが菖は見つからなかった。それが、思わぬとこから手がかりを得られるとは………
塔野の家から帰ると、多江が門の前で行灯(あんどん)を片手に右往左往していたので「多江!」と声をかけると「篤様! ご実家から早馬がやって参りました奥方様より文をお預かりしております!」と文を差し出す。
篤は、一刻もはやく菖を探しに海の方へと向かいたかったが、母の文を無碍にはできずに行灯の光でそれを読む。
「父上がお倒れになられた、一刻の猶予もない危ない状態にあられると…………しめた、呪いの言葉が利いたか」と手を叩く篤に、不謹慎でございます、と一応言ってみたが、多江も呪いの言葉を放っていた身なので思わず表情を弛ませた。
親の死に目に立ち会わぬわけにもいかず、篤は「仕方ない、実家に戻るか」と舌を鳴らしたのだ。
実家に戻るとさっそく兄と嫁さまが待ち構えていて「財産のことだが」と怖い顔をしておられたので「私は第三の邸宅をいただければ他には何もいりません」と答えると、兄も嫁さまも安堵なさったご様子で「父上にお会いなさい」と先を急がせた。
三十畳の床の間では父が白装束を着せられ、うんうんとうなり声をあげていて、その傍らで母が額に浮かんだ汗を丁寧に拭いていた。
「篤、やっといらしたのでごさまいますね」
「遅くなりました、母上」
篤は母に頭を下げると、とどめの呪いの言葉を唱えようとしたが、母があっけらかんとしたように話し出したので、そちらに耳を傾けた。
「父上さまは、亭主のいる女に手を出し、逆恨みされお刺されになられました」
母があまりになんて事ないといったお顔でおっしゃるので、度肝を抜かれた篤は「へえ」という変な返事をしてしまう。
「刺し傷が浅く苦しんでおられますが、お医者さまはもう駄目でしょうと仰いました」
父が「ううっ」と眉と眉の間に皺をよせたので「あなた、大丈夫でしょうか?」と母は白々しく汗を拭った。
ひょっとしたら、本当に恐ろしいのは父より母なのかもしれない、と思い知った篤は「父上さま、しっかり」などと自分も白々しいことを言い、その場をやり過ごすことにした。
塔野は、最近の篤の変わりようには頭を悩まされるばかりだった。
この世は天国とばかりに生き生きと幸せそうな日々を過ごしていたと思えば、怪我して幾日か休みをとった後は地獄を徘徊する亡者のようになってしまった。女教師の多い女学校では、そんな篤を気味悪がる者まで出て霊媒師にお祓いをさせたらいいのでは、などと囁かれていたので塔野は「いい気味だ」と笑っていた。
しかし、あまりに篤が塞ぎこんでいる期間が長いので、そのうちに心配になり、篤を酒や釣りなどにも誘ってみたが「忙しいです」と一刀両断されてしまう。
「ならば、俺の家に遊びに来い」と、帰りがけの腕を掴み、嫌がる篤を無理矢理自宅に連れて帰ってみた。
塔野家は祖父母に両親、兄弟七人の大所帯で鳥小屋のように賑やかだ。塔野も遊郭で女に嫌われてしまい塞ぎこんでしまいたくなることもあるが、この家に帰るとそんなことはどうでもいいように思えてくる。末の弟と妹が茶碗をひっくり返し喧嘩しているのを仲裁しながら「適当に座れ」と座布団を投げて寄越す。
篤が「おじゃまいたします」などと頭を下げても、誰も気がつきもせずに末弟が「兄ちゃんがげんこつした!」と泣き出した。
「噂によると、おまえの縁談相手はあの茉寧らしいではないか! しかもうまく話が進まずに水に流れたのであろう? だからといってそこまで落ち込むな。おまえらしくない」
騒がしい家で塔野にそう言われると、篤様をお慕いできぬなら川に飛び込みます、と茉寧が大騒ぎしたことなど、もうどうでもよくなってしまい「ええ、本当に……」と呟き茶渋がついた茶碗に注がれた酒に口をつけた。
「茉寧はたしかにとびきりの美人だが、少し気が強すぎるじゃじゃ馬だ。女はちょいとおとなしいくらいがおまえには似合っているよ」
篤は、また「ええ、本当に……」と繰り返した。
焼いた柳葉魚(ししゃも)を運んできた塔野の姉は篤を一目みて、急に魚を置いて奥の部屋にすっとんで行ったと思えば、顔に母の白粉(おしろい)を叩きつけて戻ってきた。
「おはつめかかります。姉のサヤにございます」と艶やかな声をだす姉は、冷たい目を向けた弟を小突き「この方の、お名前は?」と早口でおっしゃった。
「重永のとこの篤治郎です」
姉は「まあ! 御貴族様が何故このようなぼろ屋敷に!」と両手を頬に添えるとそのまま後ろにひっくり返ってしまったのだ。
塔野は「時代遅れな姉だ」と足蹴りして「おかしな家族だろ?」と篤の笑いを誘う。
篤の頬に赤みがさして「そうですね」と久々に白い歯をみせてくれたので「まあ、飲めや」と酒を足した。
酒の入った篤は、菖を見つけた日から遡り、腹を割って塔野に打ち明けた。
塔野は「うん、うん」と頷きながら、内心は冷や汗をかいていた。
自分の見当違いの心配よりも、もうかなりの大きさで篤の話は深刻だ。
塔野も親には殴れたりするが、木に縛り付けてまで痛めつける気持ちは匙一杯も理解できずに、段々と目の前の男が哀れになってきた。隣で聞き耳をたてていた姉と、その脇にはいつの間にか母親までいて「おかわいそうに」と着物の裾で涙や鼻汁をすすっていた。
「女はあちらへ行け」と母と姉を部屋から追い出すと、塔野はぴしゃりと襖をしめて、篤にずいっと近づき肩に腕をまわした。
「篤よ」
「なんだか気持ち悪い。私に近寄らないでください」
「俺も近づきたくはないのだが、家族には聞かれたくない話だ」
塔野には遊郭で可愛がっている蓉(よう)という遊女がいる。蓉とは年も近く色々なことを話せる相手なので、蓉も遊郭でのことをたまにこっそりと塔野に漏らしていた。
なんでも、遊郭に売られてきた女の中に伝説になる勢いで人気の遊女がいると篤に教えたのは塔野なのである。それが菖の姉ではないかと気がついたのは篤の方だが、篤は新しい情報に「ほう」と頷いた。
「見受けいたされたか」
「そうだ。店主もなかなか筋のよい女を手放すが惜しく相当ふっかけた金銭を要求したようだが、それをたやすく支払ったそうだ。男は、まだ若い海の商人だと聞いている。大きな船を何隻も持ち、何百と人を雇い西へ東へと航海をさせているそうな」
その遊女は見受けされる前に、これで家族も救えると蓉に話たようで、それだけの財力がある男を手に入れた姉ならば行方不明の菖も見つけ出すことができるのではないか…………と塔野は当てずっぽうに言ってみたのだが、篤の表情がかわった。
「塔野の夜遊びもあながち悪い事だけではないようだ」
「人が大事な情報流してやったんだ、有り難う、と一言もいえないか」
篤は「ありがとうございます」と床に頭をつけると、家を出た。
「おーい、篤よ。俺も協力してやるから、明日にしろ!」
篤は、塔野に手を振り暗い夜道に消えていった。
もう幾度となく菖を探しさ迷っていた。元屋敷の跡地に掘ったて小屋、母がいたという遊郭にその近辺をくまなく探していた。
菖は神隠しにあったかのように忽然と姿を消してしまったのだ。
第三邸宅からかなり遠く離れた茶屋の女主人が「あそこの木の下で泣いている娘を見たよ。あんたがいう時期と同じ頃にね」という情報が唯一の手がかりだった。着物の柄と体の特徴が菖と同じだったので間違いないと確信したが、女主人は「足は傷だらけだし、走ってきたので髪は乱れ、着物も破けていたから、狼に食われちまうから家に帰りなって言ってやったんだよ」と言うので、篤はその場で崩れてしまいそうなほど悲しくなってしまった。ここまでの距離をたった一人、あの細い体で素足で走ったのだ。心は酷く怯えていたのだろうに、と想像するだけで父を殺してしまいたいほど憎く呪いの言葉を述べながら篤は娘が向かったという方を探して歩いたが菖は見つからなかった。それが、思わぬとこから手がかりを得られるとは………
塔野の家から帰ると、多江が門の前で行灯(あんどん)を片手に右往左往していたので「多江!」と声をかけると「篤様! ご実家から早馬がやって参りました奥方様より文をお預かりしております!」と文を差し出す。
篤は、一刻もはやく菖を探しに海の方へと向かいたかったが、母の文を無碍にはできずに行灯の光でそれを読む。
「父上がお倒れになられた、一刻の猶予もない危ない状態にあられると…………しめた、呪いの言葉が利いたか」と手を叩く篤に、不謹慎でございます、と一応言ってみたが、多江も呪いの言葉を放っていた身なので思わず表情を弛ませた。
親の死に目に立ち会わぬわけにもいかず、篤は「仕方ない、実家に戻るか」と舌を鳴らしたのだ。
実家に戻るとさっそく兄と嫁さまが待ち構えていて「財産のことだが」と怖い顔をしておられたので「私は第三の邸宅をいただければ他には何もいりません」と答えると、兄も嫁さまも安堵なさったご様子で「父上にお会いなさい」と先を急がせた。
三十畳の床の間では父が白装束を着せられ、うんうんとうなり声をあげていて、その傍らで母が額に浮かんだ汗を丁寧に拭いていた。
「篤、やっといらしたのでごさまいますね」
「遅くなりました、母上」
篤は母に頭を下げると、とどめの呪いの言葉を唱えようとしたが、母があっけらかんとしたように話し出したので、そちらに耳を傾けた。
「父上さまは、亭主のいる女に手を出し、逆恨みされお刺されになられました」
母があまりになんて事ないといったお顔でおっしゃるので、度肝を抜かれた篤は「へえ」という変な返事をしてしまう。
「刺し傷が浅く苦しんでおられますが、お医者さまはもう駄目でしょうと仰いました」
父が「ううっ」と眉と眉の間に皺をよせたので「あなた、大丈夫でしょうか?」と母は白々しく汗を拭った。
ひょっとしたら、本当に恐ろしいのは父より母なのかもしれない、と思い知った篤は「父上さま、しっかり」などと自分も白々しいことを言い、その場をやり過ごすことにした。