およしなさいよ、うさぎさん。
 母を休ませるために、篤は付き添いを交替することを提案した。
 意識があるのかないのかわからないが、酷く魘される父を前に、人として悪事を重ねるとろくな死に方ができないか、と悟りを開き、その枕元で「父上、苦しいですか? その苦しみは地獄まで続きますよ」と唱えたりしてみた。

 父が「うぐっ」と顔をしかめて、ゆっくりと腐りかけている魚みたいな目を開いたので、篤は崩していた足をなおして、しゃんと背筋を正した。

「篤か……」
「そうです。父上、具合はいかがでしょうか?」
「悪いな……もう長いことはないだろう」
「いえいえ、お気になさらずに」と返事してしまい、篤はまずかったかと父を上から見ていたが、どうやら叱る力は残されていないようだ。

「おまえはわしが嫌いか?」

 篤は、どう返事をしようか悩んだが、正直に話すべきだと考えた。ここで初めて父に正直にならねば必ず後悔すると思った。
「はい、お嫌いにございます」
「父が憎いか?」
「はい、とても」
 腐った魚の目がじろりと睨みつけてきた、篤はその眼孔にどきりとさせられ、次の瞬間その目から一筋の涙が流れて余計にどきりとなった。
「はじめて本心で頷いたな……篤」
 自分はそこまで父上に反抗していたのだろうか、篤はよくよく考えてみたが、思い起こすは歯を食いしばり父を睨みつけていた記憶ばかりだった。

「菖を……さがしだすことはできたか」

「いえ」
 そうそう、いつもこの顔です……と思いながらも、虫の息の父を睨みつけることは、あまりよろしくないとも思う。
「わしはとうに見つけたぞい、おまえもまだまだ若いな……」
「なんですとっ」
「菖は父と母と長家で暮らしておる。言っておくが、菖と約束したので、わしはもうあれ以上のことは何もしておらん…………気になっておったので遠くから眺めただけだ」
「当然でございます、父上。菖は、とても人が走れる距離ではない長い道のりを素足で走り、疲れて木の下で泣いていたそうです」
 父が他人ごとのように「可愛そうな娘だ……」と仰るので、傷口を足で踏んで開いてやりましょうか、と篤は立ち上がったのだが、父が次々に涙を流すのでそれはやめておいた。

「色んな女をみてきたが、おまえの母もいい女だが…………菖もいい女だな………………篤治郎よ」

 それだけ言うと、父はまた「うんうん」と唸りだした。

「父上は傲慢にございます」

 篤はそれだけをやっとの思いで言うと、兄が「かわろうか」と襖を開いたので、大きく頷き、隣の部屋で眠る母の背を見ながら涙が止まらなくなった。
 あんな父は早く死んでしまえばいいのだが、憎かった相手の弱き姿を見た途端に戦う相手を見失い、篤は途方に暮れたのだ。
 もう、何も邪魔が入らないのだから、今すぐにでも菖を迎えにゆきたい。しかし、父が息を引き取るまでと決めて、篤は実家にとどまることを決めた。

 それから三日三晩苦しみ続けて、父はようやく息を引き取った。痛みに魘され歪んだ顔に白い布がかけられると、そこでようやく母が「はあ」とため息をついて寂しそうな顔をした。

 母の肩を抱いてやると密かに震えていた。

 父の遺体に要職の服が着せられ、腰に刀をさし棺におさめられた。棺に蓋をして釘が打たれると、兄が人目も憚らずにおいおいと泣いた。
 国からの参列者、政府要人たちには「胃の風邪をこじらせ気丈に振る舞いながらもご無理が祟り……」と説明しながら涙を拭く母を尊敬し、篤も「胃の風邪を……」と同じような説明をして涙を拭く真似をした。
 茉寧とそのご両親も葬儀に参列していたが、篤を見つけた途端に物言わず頭だけを下げて他の参列者に紛れてしまった。茉寧だけはこっそりと篤を見つめて、篤様……と涙ぐんだが、篤はそれに気がつかずに別の参列者に頭を下げた。
 兄が長男として立派に喪主の挨拶をおこない、重永家も安泰だなどと言われながら、葬儀は終わる。夜のとばりがおりた頃、火葬されて墓に入った父へ線香をやると、篤は母に挨拶をして海の方へと馬車を走らせた。

 葬儀に来ていた政府筋の関係者から、船を何隻も持ち、人を何百と雇っている商人の話は聞き出すことができた。秋田という男だそうで、屋敷の場所も大方掴んでいた。
 馬車を夜通し走らせ、港についた時はすでに朝になっていた。草鞋を売る女が「お一ついかがですか、旦那」と声をかけてきたので、一つ買い取り、この辺りに長家はないかと訊くと「秋田様のところの長家はあっちですわ」と気前よく近くまで案内をしてくれた。

 朝の賑やかな港町では、長家の前の狭い通りには多くの人が行き交っている。共同の井戸には長い行列ができていて、女たちが楽しそうに喋っている。その女たちの顔を一人一人見て歩いていると「まあ」とか「いやね」と指をさされたが篤は全く気にせずに菖だけを想う。

 もうどれくらい、触れていないだろうか…………あの白く柔らかな肌。紅を水にといたような唇。

 もうどれくらい、聞いていないだろうか…………「篤さま」と呼ぶ甘い声。

 もうどれくらい、自分は菖を求め続けているのだろう。


 通りに面した玄関先で「あやめどのー!」と呼びかける青年の声を聞き、篤は振り返った。
「はーい、今参りますゆえ」という礼儀正しいお返事が聞こえ菖が姿を見せた。
 以前と何も変わらぬお様子で、痩せこけてはおらず、細身ではあるがふっくらとした頬は薄い紅色をしている。
「菖どの、今朝の魚です」
「ありがとうございます。朝の漁はどうもお疲れ様でございました」
 二人は親しげに挨拶を交わして、菖は「どうぞ」などと青年を家に入れようとしている。
 これはたまらない、と篤は頭を鍛冶屋に打たれたほどの衝撃を受けた。

 菖はもしかするとあの男と結婚してしまったか? 父上はこれを眺めたから、もう何もすまい、と菖の元から去ったのか? 私が傷つくとわかっていたので、死に際にあのような事まで仰ってあざ笑っていたのだろうか?

「線香などくれてやらねばよかった……」

 篤は額に手を置いて、呼吸を整えた。

 それでも菖を見つけ出すことができた喜びがまさり、あの日、菖がうさぎさんを捕まえようとしていた時よりもさらに体が高揚していく。
 篤は拳を握りしめると、かまうものか力尽くでも全て奪ってやりましょう、と九尺ほどの長家の戸口に立ったのだ。


< 14 / 16 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop