およしなさいよ、うさぎさん。
馬車の中で四角い窓に「はあ」とため息を吐き出すのが日課になってしまった篤は腕を組み大層つまらなそうな顔をした。
「菖も一緒に馬車に乗せてしまいたかった」
「はいはい、多江で申し訳ございませんね。篤様」
「全くその通りです」
今度は、多江が反対側の四角い窓に篤よりも盛大なため息を吐き出した。
父からの文(ふみ)には、たまには顔を見せろ、という文面が書いてあった。よい機会なので菖を紹介しようと思った篤は、まず一番に多江へ相談したのだ。
そうしたら鬼のような形相で「何をおっしゃいますか、篤様!」と叱られた。
対外的にも未婚の男が若い娘を屋敷に居候させることなど大問題である。特に重永は代々続く立派なお家柄。その次男であられる篤にも例外はなく、しかりとした段取りを踏み、その上で菖と結ばれる必要がある。
その為には、まず菖の存在を明かし、将来を添い遂げたいと告げ、ご理解いただけたうえでお顔見せを行い、菖が受け入られたのならば結婚を承諾される、という段階を踏むべきである。幸いにも菖は品があり、言葉遣いも行動もいかにも良家の令嬢と見て取れるので余程の粗相をいたさなければ、お家のことはどうにか誤魔化すことができるのではないか。また、そうする事が篤と菖の為になることも多江はよく知っていた。突然に若い娘を連れてゆき「結婚したい」と申すことは筋が通らないと思うからだ。
しかも、篤はところかまわず菖に触れるという悪いくせがある。あれを本邸でやられてしまえば奥方さまなどはひっくり返って魘されるだろう。
「多江、菖の家族について調べてみたのだが、まず母さまは変わらずに遊郭につとめておられた。姉さまは初物なので丁重に扱われたようだ。水揚げをしたのは大金持ちの商人(あきんど)だとかで、今や花魁になるやもしれないほどの人気だそうです」
篤は苦虫を潰したような顔で「一歩間違えれば菖も同じ道をいったのですよ」と話し、ぶるりと身震いさせた。多江は、大差ない、と思ったが口にも顔にもださなかった。
「父親は菖がいなくなったことで酒に浸り、阿婆擦れ女を連れ込んだりして残飯(ざんぱん)を持ってこさせているようだ」
今度は多江がぶるりと身震いをした。篤から感じたこともないような怒りが溢れていたからだ。
「娘一人満足に食わすことができず……同じ男としては赦せない」
いつになく強い口調でそう言った篤だが「しかし」と意気消沈したように下を向いた。
「菖はよく父さまの心配をなさるのです。お体のことやらを気にして私には見えぬよう、そっと涙ぐむのです。婚儀が正式に整えば重永の力で父も母も姉もどうにかなるやもしれない。その時は多江も協力してくれると助かります」
多江は「もちろんでございます」と頷いた。
重永本邸、第一の邸宅は西洋館と呼ばれるご立派な建物で土台から骨組みまで全ての資材を輸入し、西洋の人に作らせたものだ。アールヌーヴォーなどという曲線つかいが特徴なのだそうだが、畳もなく座る場所は椅子しか許されないので、篤には不便で窮屈な家としか思えないのだ。
「ただいま戻りました」
篤の声が響くと、奥の第二邸宅のほうから「はい、今参りますゆえ」と返事が聞こえた。
第二の邸宅は昔ながらの日本家屋だ。畳があり床がある。
結局のところ、第一邸宅は虚勢であり、その後ろに隠すように庶民と同じような住み慣れた家がある。
篤は「無駄な贅だ」と愚痴をこぼし、アールヌーヴォーなどと呼ばれる仕様の階段の手すりを撫でながら、第二邸宅へ向かう通路を進む。
「おかえりなさいませ、篤治郎(とくじろう)坊ちゃま」
そういえば自分はそんな名前でした、と思い出しながら、篤は「ただいま」と使用人たちに挨拶する。
「旦那様と奥方様がお待ちでございますよ」
「わかりました。すぐに参ります」
第二邸宅で草履を脱ぐ前に、篤は深呼吸をして表情をかためるために硝子戸に自分の顔をうつした。
何を言われても狼狽えてはいけません……と呪文のように心で唱えて「ただいま戻りました」と凛とした声をだし床に足をあげた。
童子の頃にかけて遊んでいた廊下を歩き、膝をついて襖を少し開いた。
「入れ」という父の低い声を聞いてから、頭を低くして中に入る。
父は久々に会えた息子を、しかも自分が呼び出したのにも関わらず「おまえは、どうして挨拶もしに来れんのだ!」と一喝し、篤は額を畳につけた。
「父上さま、申し訳ございませんでした。お仕事のほうが手一杯にございます」
「女の教育などに手一杯になるな、馬鹿者」とまた怒鳴られ、雪見硝子がびりびりと震えた。
「まあ、あなたよろしいではないですか。篤、お顔をあげてくださいまし」
母の許しを請うて、面をあげると、女中が茶を運んできたところだった。
父は立派な髭をはやし、太い眉をつり上げて篤を睨みつけ、その隣には優しいお顔立ちの母が座っている。十人中十人が篤は母親似だと言う。
多江は、廊下で篤の荷物を膝にのせたまま正座をし、はらはらと事の成り行きを見守った。
どうして自分は本気で篤様と菖様の縁談がうまく進むと信じていたのでしょう……と、ひどい不安におそわれていたのだ。
本邸の旦那様は、昔より女中に手をあげることなどで知れていた。そのような事があるので、多江は優しい篤の女中になることを望んでついていったのだ。
それに今日の旦那様はいつになくご機嫌が悪いように思われる。多江は胃をきりきりとさせながら、篤を見守った。
篤は篤で、多江の気苦労もしれず、この方は相も変わらず威圧的な態度でしか人を従わすことができないか、と冷めた目で父親を見ていた。
「お二人とも、お元気そうで安心いたしました。母上さまは、腰の痛みはお和らぎになられましたでしょうか」
「ええ、篤からいただいた灸をのせていましたらとても良くなりました。ありがとうございます」
「いいえ、それはよかったです」
二人のやりとりに退屈した父親は、煙管を咥えて真っ白な煙を吐き出す。
母がほんの少し眉をしかめたのを見ると、篤はいつも悲しくなった。
父上は、傲慢だ。
篤はいつかそう言ってやりたいと思いつつ、今日も口を噤んだ。
そして傲慢な父は篤の心情など知る由もなく、いきなり本題を切り出した。
「おまえに縁談の話がある」
篤は、やはり……と心内で身構える。
「相手は、おまえもよく知る紫音のところの茉寧だ」
それも、やはり……と思う。
篤の返事は決まっているが、父の話をまず先に全部聞いてしまおうと、膝にのせた手を固く握りしめた。
「菖も一緒に馬車に乗せてしまいたかった」
「はいはい、多江で申し訳ございませんね。篤様」
「全くその通りです」
今度は、多江が反対側の四角い窓に篤よりも盛大なため息を吐き出した。
父からの文(ふみ)には、たまには顔を見せろ、という文面が書いてあった。よい機会なので菖を紹介しようと思った篤は、まず一番に多江へ相談したのだ。
そうしたら鬼のような形相で「何をおっしゃいますか、篤様!」と叱られた。
対外的にも未婚の男が若い娘を屋敷に居候させることなど大問題である。特に重永は代々続く立派なお家柄。その次男であられる篤にも例外はなく、しかりとした段取りを踏み、その上で菖と結ばれる必要がある。
その為には、まず菖の存在を明かし、将来を添い遂げたいと告げ、ご理解いただけたうえでお顔見せを行い、菖が受け入られたのならば結婚を承諾される、という段階を踏むべきである。幸いにも菖は品があり、言葉遣いも行動もいかにも良家の令嬢と見て取れるので余程の粗相をいたさなければ、お家のことはどうにか誤魔化すことができるのではないか。また、そうする事が篤と菖の為になることも多江はよく知っていた。突然に若い娘を連れてゆき「結婚したい」と申すことは筋が通らないと思うからだ。
しかも、篤はところかまわず菖に触れるという悪いくせがある。あれを本邸でやられてしまえば奥方さまなどはひっくり返って魘されるだろう。
「多江、菖の家族について調べてみたのだが、まず母さまは変わらずに遊郭につとめておられた。姉さまは初物なので丁重に扱われたようだ。水揚げをしたのは大金持ちの商人(あきんど)だとかで、今や花魁になるやもしれないほどの人気だそうです」
篤は苦虫を潰したような顔で「一歩間違えれば菖も同じ道をいったのですよ」と話し、ぶるりと身震いさせた。多江は、大差ない、と思ったが口にも顔にもださなかった。
「父親は菖がいなくなったことで酒に浸り、阿婆擦れ女を連れ込んだりして残飯(ざんぱん)を持ってこさせているようだ」
今度は多江がぶるりと身震いをした。篤から感じたこともないような怒りが溢れていたからだ。
「娘一人満足に食わすことができず……同じ男としては赦せない」
いつになく強い口調でそう言った篤だが「しかし」と意気消沈したように下を向いた。
「菖はよく父さまの心配をなさるのです。お体のことやらを気にして私には見えぬよう、そっと涙ぐむのです。婚儀が正式に整えば重永の力で父も母も姉もどうにかなるやもしれない。その時は多江も協力してくれると助かります」
多江は「もちろんでございます」と頷いた。
重永本邸、第一の邸宅は西洋館と呼ばれるご立派な建物で土台から骨組みまで全ての資材を輸入し、西洋の人に作らせたものだ。アールヌーヴォーなどという曲線つかいが特徴なのだそうだが、畳もなく座る場所は椅子しか許されないので、篤には不便で窮屈な家としか思えないのだ。
「ただいま戻りました」
篤の声が響くと、奥の第二邸宅のほうから「はい、今参りますゆえ」と返事が聞こえた。
第二の邸宅は昔ながらの日本家屋だ。畳があり床がある。
結局のところ、第一邸宅は虚勢であり、その後ろに隠すように庶民と同じような住み慣れた家がある。
篤は「無駄な贅だ」と愚痴をこぼし、アールヌーヴォーなどと呼ばれる仕様の階段の手すりを撫でながら、第二邸宅へ向かう通路を進む。
「おかえりなさいませ、篤治郎(とくじろう)坊ちゃま」
そういえば自分はそんな名前でした、と思い出しながら、篤は「ただいま」と使用人たちに挨拶する。
「旦那様と奥方様がお待ちでございますよ」
「わかりました。すぐに参ります」
第二邸宅で草履を脱ぐ前に、篤は深呼吸をして表情をかためるために硝子戸に自分の顔をうつした。
何を言われても狼狽えてはいけません……と呪文のように心で唱えて「ただいま戻りました」と凛とした声をだし床に足をあげた。
童子の頃にかけて遊んでいた廊下を歩き、膝をついて襖を少し開いた。
「入れ」という父の低い声を聞いてから、頭を低くして中に入る。
父は久々に会えた息子を、しかも自分が呼び出したのにも関わらず「おまえは、どうして挨拶もしに来れんのだ!」と一喝し、篤は額を畳につけた。
「父上さま、申し訳ございませんでした。お仕事のほうが手一杯にございます」
「女の教育などに手一杯になるな、馬鹿者」とまた怒鳴られ、雪見硝子がびりびりと震えた。
「まあ、あなたよろしいではないですか。篤、お顔をあげてくださいまし」
母の許しを請うて、面をあげると、女中が茶を運んできたところだった。
父は立派な髭をはやし、太い眉をつり上げて篤を睨みつけ、その隣には優しいお顔立ちの母が座っている。十人中十人が篤は母親似だと言う。
多江は、廊下で篤の荷物を膝にのせたまま正座をし、はらはらと事の成り行きを見守った。
どうして自分は本気で篤様と菖様の縁談がうまく進むと信じていたのでしょう……と、ひどい不安におそわれていたのだ。
本邸の旦那様は、昔より女中に手をあげることなどで知れていた。そのような事があるので、多江は優しい篤の女中になることを望んでついていったのだ。
それに今日の旦那様はいつになくご機嫌が悪いように思われる。多江は胃をきりきりとさせながら、篤を見守った。
篤は篤で、多江の気苦労もしれず、この方は相も変わらず威圧的な態度でしか人を従わすことができないか、と冷めた目で父親を見ていた。
「お二人とも、お元気そうで安心いたしました。母上さまは、腰の痛みはお和らぎになられましたでしょうか」
「ええ、篤からいただいた灸をのせていましたらとても良くなりました。ありがとうございます」
「いいえ、それはよかったです」
二人のやりとりに退屈した父親は、煙管を咥えて真っ白な煙を吐き出す。
母がほんの少し眉をしかめたのを見ると、篤はいつも悲しくなった。
父上は、傲慢だ。
篤はいつかそう言ってやりたいと思いつつ、今日も口を噤んだ。
そして傲慢な父は篤の心情など知る由もなく、いきなり本題を切り出した。
「おまえに縁談の話がある」
篤は、やはり……と心内で身構える。
「相手は、おまえもよく知る紫音のところの茉寧だ」
それも、やはり……と思う。
篤の返事は決まっているが、父の話をまず先に全部聞いてしまおうと、膝にのせた手を固く握りしめた。