大好きな君へ。
橋を越えて
 朝起きて、写経を始める。
誰にも迷惑を掛けたくないから、事前に女将さんから文机を借りた。


硯をを文机の上に置き、心を込めてすり上げる。
墨の色は慶弔で変わる。
慶びは黒く、哀しみは薄くするのが常識だそうだ。


隼人君のために隼と用意した半紙。
でもそれは付いていた見本より短かった。


写経用紙が何処で手に入れられるなんて解るはずもない。
だからそれで良いことにしたんだ。
心を込めることが結夏さんと隼人君の成仏に繋がると思ったからだ。




 経題。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経(仏さまによって完成された大いなる智慧の世界の真髄を説かれたお経)と言う意味がある。

第一節。
観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
から始まり般若心経で終わる全二百七十八文字。
私は一字一字心を込めて書く。
それは勿論自分を満足させるために他ならない。
それで少しでも心の負担を取り除きたいのだ。




 手前を一行空けて、仏説摩訶般若波羅蜜多心経と記した。
観自在菩薩から始まり、菩堤薩婆訶と記した後で一行空けて般若心経で締め括った。


残りのマスに名前を書き込み終了させる。

そうやって、やっと形にしていったのだった。




 『若いに偉いわね』
女将さんはそう言ってくれた。
でも誉められたくてやっている訳ではない。


私の心を軽くするための愚かな行為なのだ。


私はただ隼に愛してもらいたいだけだった。
そのために結夏さんの思い出を隼の中に封印させなければいけなかったのだ。


結夏さんのことで苦しむ隼を見たくなかった。
なんて嘘だ。
私はただ隼に私のことだけ考えてほしかったんだ。

結夏さんから大事な隼を取り上げたかっただけなのかも知れない。
一生懸命お祈りしても何だか嘘っぽい。


下心を隠して料理した出発前夜。
私は自分からキスをしていた。

あの時気付いた。
私の本音に……


私は隼を手に入れるために秩父札所へ巡礼に行こうとしているのだと。

本当に本当にバカなヤツだったのだ。


結夏さんの大事な隼を独り占めしたくて……
本当は此処にいるだけなのかも知れない……


(私は本当に、隼人君を救いたいから隼と此処に居るのだろうか?)

私はまだ迷路の中にいた。




 「女将さん。夜テレビを見せてもらっていいですか? 札所の方にあの花の実写版今日あるって聞いたので……」


「勿論良いわよ」
女将さんは頷きながら言った。




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