インセカンズ
「たった一度だけね。タケルが送ってくれた時、キスされたことがあったの。吃驚したけど、お互い酔ってたし特に意味はないものだと思ってたんだけど、唇が離れてタケルの顔を見た時、すごく切なそうな顔してたんだ。それが、なんていうか、とても嬉しかったんだよね。どこかで、一泡吹かせたいって気持ちがずっとあったんだけど、その顔見たら、もうそんなのどうでもよくなってた。なのに、ここまで引っ張ってきちゃったんだよね。

……そのときのキスが今でも忘れられないんだ。唇が一瞬触れて、その後、探るにように何度か唇を重ねてきて。もどかしくて、思わず腕を掴みたくなったくらい優しかった。……なんて、ヒデには勿論内緒だけどね。それ以上は何もなかったし、それっきり、タケルが手を出してくることはなかったから、もしかしたら、踏ん切りをつけようと思ってたのかもしれないな」

ミチルの少しだけ寂しそうな横顔。大野の気持ちも彼女の気持ちも、緋衣は理解できた。

「ミチルは揺れなかったの? 今でも忘れられないくらい、そのキスは大切なものだったんでしょう?」

「ちょっとね、ちょっとだけ揺れたのは確かだけど、ヒデのこと愛してるもん。小さな喧嘩したり不満はいっぱいあるけど、何より、傷ついていた私を時間を掛けて癒してくれたことに感謝してる」

穏やかな顔でヒデのことを話すミチルの心は、もう決まっているようだった。

「そうだよね。一瞬の気の迷いのせいで、幸せをふいになんてできないよね」

「もういい大人だしね。いつまでも冒険はできないよ」

ミチルの言うことは正しい。分別ある大人は選ぶ道を間違わないものだ。それと分かっていて飛び込む度胸は、自分にはもうないものだと緋衣は思う。


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