インセカンズ
「一度位なら、ヤスさんと噂になってもいいかなって」

「何だそれ。大したポリシーだねぇ」

安信は、いつもの緋衣の反応を期待して冷やかすような口振りで言うが、彼女は手のひらのマスコットに視線を落としたまま意に介さない。緋衣の様子が違うことはすぐに気付いたが、彼の方から声を掛けてやることはしなかった。

「……ヤスさん。私、プロポーズされたんです」

緋衣は、躊躇いながらも、自分の手元を見つめたまま告白する。安信の顔を見ることはできなかった。

「へぇ。アズが望んでいたことなら、良かったじゃねーか」

彼のその言葉は、想像以上に緋衣を深く谷へと突き落とした。試すような言い方をしても、安信には通用しない事くらい分かっていた。当たって砕けるつもりで体当たりしなければ、きっと認めてはもらえない。

緋衣が結婚すると知って顔色一つ変えてないのではと思うと、確かめるのが怖くて振り向くことさえできずにいる。

「ああ、マリッジブルーってやつか? 結婚前に俺と浮名を流そうなんて血迷ったか?」

安信の顔を見れずにいるから、彼が今どんな顔をしているのか、淡々と話す声から想像するしかない。平然としているのだろうか。いつものようにからかっているのだろうか。それとも、少しは怒っている……?

「まだ婚約はしてないですから、マリッジブルーは違いますよ」

緋衣はとっさに嘘を吐いてしまう。

安信が引き留めてくれるはずはない。こんな駆け引きは無駄な足掻きでしかないのに、どうにかして彼の気持ちを確かめたいと思ってしまう。期待してしまう。

「要は、アズの返事待ちってことか? 相手も毎日気が気じゃないだろうな。可哀そうだから、早く返事してやれよ」

けれども、安信は、緋衣が欲しかった言葉を何一つとしてくれない。嫌味のような餞別の言葉に、途端に悔しさが込み上げてくる。安信にだけは言われたくない。緋衣は唇を噛み締める。最初からこうなることは分かっていた。結局、好きになった方が負けなのだ。

< 127 / 164 >

この作品をシェア

pagetop