インセカンズ
暫くすると、隣りからタイピングの音が聞こえてきて、安信が仕事をしているのだと分かった。

言葉ひとつでぼろが出てしまう事を懸念して寝たふりを決め込んだものの、話している方が気が紛れるのかもしれないと思い直した矢先ではあったが、そんな理由から邪魔する訳にもいかず空寝を続ける。

恐れずに二人に詰め寄っていれば良かったのだろうか?さすがに公衆の面前では怯んでしまう。ちゃんと確かめなかったからこそ、もしかしたら他人の空似だったのかもしれないと、一縷の望みに掛けてしまいたくなる。けれども、何度も頬を寄せ合いキスをして、ほんの少しも隙間がないくらい抱き合った相手を見間違えることの方が難しい。

心の中で溜息を吐いては、同じ事を繰り返し考える。

お互い一目惚れに近い状況で始まった関係だった為、いわゆる片想い期間がなかったせいか、近くにいた頃は亮祐の事をこれほどまでに考えたことはなかった気がする。それが、あの女の出現で、考えない日々はなくなった。けれども、その理由が問題なのだ。

「――はいっ?」

緋衣は、自分を呼ぶ声に気付いてはっと目を覚ます。安信に振り返ると、彼は一瞬目を丸くして吹き出す。

「アズ、よだれ」

ククク、と喉の奥を鳴らしながら左側だと伝える安信に、緋衣は慌てて口元を拭う。

「すみません! お化粧直してきます」

バック片手に立ち上がる緋衣に、安信も一旦席を立つ。

「熟睡してたな。あと二駅だから、のんびりするなよ」

緋衣は、すぐ戻りますと返事をして6号車を後にする。

洗面台は空いていた為、中に入るとカーテンを閉めて鏡を覗き込む。

まさかこのような状況でも寝てしまうとは思ってなかった。緊張が解けて眠ってしまったのだろうか。安信には、どこまでも情けない姿を見られてしまう。さっきは、本当に口端が濡れていて焦ってしまった。

ふと脳裏に、二時間前に目撃したばかりの出来事が浮かぶ。それは今でもはっきりと覚えていて、リアルに目に焼き付いているのにどこか他人事のようにも思えてしまうのは、現実逃避以外の何物でもない。
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