インセカンズ
安信に笑われて居た堪れなくなり逃げてきただけだったが、ついでに軽くメイクを直してから戻ろうと化粧ポーチを取り出す。麺棒で目元のヨレを直して、ベージュ系のリップを薄く引く。

最後に、鏡の前で微笑んでみせて、心の中で、ヨシ!と気合を入れる。席に戻ろうとカーテンに手を伸ばしたとき携帯が着信を知らせ、その手を戻す。

ディスプレイには、‘ 亮祐 ’と表示されている。

「もしもし」

緋衣は、画面を数瞬見つめた後、気持ちを落ち着かせる為に何度か深呼吸を繰り返す。

小さく鼓動を打ち始めた心臓の音を聞きながら、ひと呼吸ついて電話に出る。

けれども、そこから聞こえてきた声は、亮祐のものではなかった。

「……緋衣さん? 今日は、せっかく亮祐さんに会いにきたのに残念でしたね。亮祐さんは、会社でトラブルがあったって言ったみたいですけど、それって、今夜はずっと一緒にいてほしいって私が甘えたからなんです」

甘ったるい女の声に、途端に心臓が早鐘を鳴らし始める。

恐怖にも似た警戒心から狼狽え携帯を持つ手が震えているのが分かるが、開いた唇はやけに落ち着いた口調で慎重に言葉を選んでいく。

「……あなた、名前は?」

「私の名前なんて聞いてどうするんですか? 略奪された相手の名前、呪いのように覚えていたいんですか? 緋衣さん、ウケる」

「亮祐は? 一緒にいるんでしょ。代わって」

「私は代わってあげたいんですけど、亮祐さん、今、シャワー浴びてるし。もう少ししたら出てくるから、このまま繋いでいれば、彼が呼ぶ私の名前、聞けますよ。違う声も聞かせる事になっちゃいますけど」

キャッ、と可愛らしい声で胡散臭い笑い方をする電話の向こうの女に、緋衣はもう何を言って良いか分からない。いつまでこの悪意に満ちたくだらない茶番に付き合えば良いのだろう。

肝心の亮祐がいないところでいくらこんな牽制を続けようとも何の意味も持たない。
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