インセカンズ
駅のホームで安信を見かけたからだろうか、彼の声を聞いた瞬間、毎日聞いているその低音の声を懐かしいと思った。

今日がもうすぐ終わるというその矢先、一日の最後に耳にする声が彼のもので嬉しいと思った。

『俺がアズを好きになる可能性は考えないんだ?』

安信と話しをしながら、緋衣はふと彼が言った言葉を思い出していた。

婚約者がいるという噂を耳にしたとき、緋衣は特に驚きもしなかった。恋人と呼べる、もしくはそれに近い相手は何人かいるだろうし、安信の年齢を考えたとき、その中から結婚相手を選ぼうとしてもおかしくはない。

安信は結婚までのアバンチュール。

緋衣にとっては代わりのきく短期的な相手。

どんなに心が揺れようとも、利害関係で結ばれた大人の関係だと理解している。冗談めかしに揺さぶりを掛けられても、しっぽを振るつもりはない。

「じゃあ、その件は俺から直接アポ取って進めるわ。ありがとな」

「いえ。ヤスさんと違って見返りは要求しませんので、安心してください」

「そこは、要求しろよ。こう見えても、少しは稼いでるんだぜ」

電話の向こうで、安信がふざけた様子でかっこつけた声を出す。

「何でもいいんですか?」

「おう。言ってみ? アズのおねだり聞きたいし」

緋衣の耳元で、低く甘い声が唆す。言われるままに、どうせなら彼を困らせるくらい、面倒くさいおねだりをしてみたくなる。安信の困った顔を見たいなんて、考えることがどんどん脅迫じみてきたようで、緋衣は自分が嫌になった。
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